騒音の外野席

 

騒音の外野席    2009年9月22日


 2009年の衆議院議員選挙では民主党が勝利を収め、政権交代となりました。 これに対し、マニフェストに対する財源不安等に加え、幾多の懸念も根強く唱えられています。

それらの懸念について、考えます。


 (1)街頭演説に出てくる人と、実際の民主党の主導権を握っているところはまったく違う。 そのあたりのことをマスコミはいっさい明るみに出していないという懸念。

 私は、実際の民主党の主導権を握っているところをマスコミが明らかにしようがすまいが、すべては民主党の政策結果責任で示すことであると思います。

 自民党時代、実際の政策に影響を及ぼす圧力団体の存在とその政策結果責任は、どの程度明瞭に報道されてきたか検証する必要があります。

 例えば、高速道路の無料化に際し30兆円の借金返済財源をどうするかというような議論が再燃しています。 ところが、この30兆円の借金が何のためにどの財源からどのように形成されてどうしていくのか、そのプロセスが過去の選挙戦のマニフェストで議論されたことなど一度もありません。

 ガソリン暫定税率も、過去35年間延長を繰り返し、道路特定財源とされています。財政の単年度予算制度と相俟って、年度末になると工事渋滞を繰り返し続けていますが、
これも一度として是非の議論がされたことがありません。

 私は、このような事象は、本来民間のシンクタンクが検証・評価する機能を持つべきであると思います。

 しかし、

・日本の民間の情報量と、霞ヶ関の情報量との差が大きすぎる
・民間の研究業務自体が、官庁御用達に近い状態である
・大学の予算は、文科省の配分に拠っている
・未だにマスコミの報道だけしか情報源がない

ということから、国民・マスコミ・シンクタンクという民間のパワーバランスが成立していないことが大きな要因です。

 今日このような結果になっているのも、

・政府、霞ヶ関が把握する情報を、開示させるシステムが不十分
・自民党は、霞ヶ関改革をお座なりにし続けた
・自民党も、それに同調したほうが好都合の時代が続いた
・それに対抗する政党が、育成できていなかった

という歴史を検証するべきです。


(2)外国人参政権を与えると、地方参政権だけであっても、一定の主張をもつ外国人が大挙押しかけて一気に片方向に投票活動を行なえば、ある種の風が生まれてしまい、その結果、国政選挙に影響を与えることは十分に想定できるという懸念。

 現在、オバマ大統領は、米国の医療保険制度改革で苦境に立っています。 カーター元大統領は、「私は南部に住んでおり、南部地域の発展を見続けてきた。 同時に、南部におけるマイノリティー、特にアフリカ系米国人に対する態度も見てきた。 これは、米国の他の地域とも共通する態度だ」と、米国内全体に、黒人への差別意識があることを指摘されています。 

 このように、米国大統領でさえ人種差別の障壁に直面しますから、日本社会にも在日朝鮮人を初めとする外国人参政権への抵抗があることは当然です。

 ただ、考慮すべきは

・米国のマイノリティは人口の25%に対し、日本のそれは1%に過ぎない
・衆院選で創価学会1000万人が後援した公明党も、小選挙区の8人が全員落選した
・鳩山政権が、アジア重視の姿勢を公約するのであれば当然の政策である

ということです。

 国政選挙に影響を与えるということに関しては、外国人でなくとも、自民党族議員・世襲議員を利権のために選出し、多数決の員数合わせをしてきたことも同じです。

 私は、鳩山政権に政権交代をきっかけとして、欧米資本主義一辺倒の姿勢を、アジアとロシア寄りに少しシフトしてもらいたいと思います。
特に近隣の韓国・中国とは、靖国神社と教科書検定という精神的な課題を抱えています。 それぞれの対応は別途行うとしても、まず目に見える形で融和政策をとるべきです。 その施策として、外国人参政権を与え、正しく運用するというモデルを世界に向かって発信するべきです。 そして、これまで見せてこなかった日本の顔を見せるべきです。 

 いつまでも枯尾花を見て幽霊だと怯えるような姿勢は、捨て去ることが肝要だと思います。


(3)人権擁護法案にしても人権侵害救済法案にしても、「人の心」という、量ることができないものを強制的に法律で裁こうとする。 民主党の「人権侵害救済法案」では、内閣府の外局として中央人権委員会を設立し、都道府県知事の所轄の下に地方人権委員会を置くことになっており、まさに究極の法案という懸念。

 大阪で、小学生の生徒がベランダに10時間放置され衰弱死しました。 近所の人は、日常的に異常に気付いていましたが、関わり合いになることを避け、救済できませんでした。 政府は、定額給付金をばら撒いておけば一段落のようですが、現在の一般市民の生活環境や風土はこのような状況です。

 オウム真理教事件では、多くの犠牲者が発生しました。 公安当局は早くからその危険性を把握しながら、宗教法人の名の下に捜査が後手に回り、防止できませんでした。 また、破壊活動防止法は、オウム真理教事件でさえ適用されていません。 このように、日本では個人の人権よりも法人格の方が尊重されます。

 他方、アメリカでは、子どもを自動車内に置きっ放しにしただけで、その親は逮捕・処罰されます。 また、子どもの泣き声を通報されただけでも、同様です。 議論の余地はあるとしても、子どもの人権に対する考え方1つにしても違いすぎます。

 一般的にアジア自体が、人権というものに対する感覚が鈍重であると指摘されて久しいです。 日本も同様に、少子化対策と言いながら、児童相談所の権限は虚弱で人数も貧弱すぎます。 地方の時代と言いながら、近隣の虐待事件も看過するという風土環境のままです。 ひとえに、それらを救済する活動体のための、法的権限が弱すぎるのです。

 日本は、外国人参政権と同様に、人権擁護というモデルを世界に向かって発信するべきです。 そして、この面でも日本の顔を見せるべきです。 


(4)年金問題で、なぜあんなに年金記載がずさんだったのかといえば、社会保険庁の労働組合の連中が仕事をサボったからであり、その自治労が支援しているのが民主党であるという懸念。

 私は、年金問題は、霞ヶ関がサボろうがずさんだろうが、ヤミ専従がいようがいまいが、それらを監督できなかった政党・行政間のシステムの脆弱性につきると思います。 霞ヶ関改革という問題を放置しつづけた自民党、そのような実態を開示さえしなかった行政、および両者の癒着という利権構造が、今日の結果を招いているのです。

 そして、政治評論という外野席が、くだらない責任の探り合いをし続けている間にも、このつけはすべて国民に回っているのが実態です。 評論をするのであれば、何が本当に優先されるべきか、公務員とはどうあるべきかということが主題であり、行政と組合というイデオロギー論争をしている場合ではありません。

 民主党のマニフェストには、「官僚丸投げの政治から、政権与党が責任を持つ政治家主導の政治へ」以下5原則が謳われています。 

 私は、民主党がこの5原則を忠実に実施すれば、年金問題のような瑕疵行政は一掃できると期待します。 冒頭の主導権と同様、すべては民主党の政策結果責任で示すことであると思います。


(5)日教組が民主党を支援しているため、安倍内閣のときの教育再生はゼロベースに戻される。 ゆとり教育的な方向が復活するかもしれないし、教育基本法を再改正するという方向になるかもしれない。 歴史教科書なども村山内閣のころの内容に戻るかもしれないという懸念。

2006年度に改正された教育基本法の要点は、以下のとおりです。

前文
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

教育の目標(2条)
幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力(13条)
学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

 タイム誌の世界影響力ベスト100人に、日本の政府関係者は入っていません。 そのキャリアからしても大学教育の責任は大きく、急を要します。 

能力育成の例として、
政治的リーダー育成(ディスカッション能力・政策立案能力・外交戦略能力等)
経済的  〃   (ノーベル経済学賞受賞能力・政策オピニオン発信能力等)

といったものが必要であり、世界的にも期待されるものです。

 また、日本の地上波デジタル、高速鉄道、環境等の規格、技術は世界標準になりつつあり、これらも世界的に必要とされています。

 安倍政権のコピーは、「美しい国」でした。 鳩山政権のそれは、「友愛社会」です。 「友愛社会」とは、まさしく教育基本法のいう「道徳心・愛国心」の累積された結果です。 長年日本が政治経済の手本としてきた欧米先進国は、その「道徳心・愛国心」の先達でもあります。

 私は、安倍政権のときの教育再生はスタートに過ぎず、むしろ鳩山政権の時代にそれが発展期を迎えると思います。 また、教育行政の重要性はますます大きくなることはあっても、後退することなど全くありえないと思います。

 繰り返しますが、政治評論という外野席が、日教組とか偏向とかと、くだらないイデオロギー論争をしている場合ではありません。 日本は世界に何を発信してゆくべきか、世界の中でどうあるべきかを真剣に議論し、「カンタン」を目指すときなのです。