ゆく人くる人

 

ゆく人くる人    2019年3月1日


 なぜ日本社会は、こうも子どもに冷たいのだろうか? この不寛容社会はどこまで深刻化するのか? というテーマで随論されることが昨今多い。 例示すると、

「駅から近いから、利用者に便利だからという理由で保育園が建設され、駅から近い環境だからこそ気に入って、少し駅から離れたエリアより格段に地価が高いのを少々無理してでも購入しているのに、その駅から離れた格安エリアに住む住民が車でこのエリアに子連れで乗りつけ、騒音や違法駐車という迷惑行為を日々垂れ流してメリットを享受するのは納得がいかない。」との不満汎溢あり。

 副校長から、「地域の方から、子どもたちの登下校の声がうるさいとお電話をいただきました。 校庭の砂が風で舞い、洗濯物が汚れたとのお電話がありました。 学校の大きなシンボルツリーの落ち葉が多すぎて、周辺にお住まいの皆さんからご迷惑とのクレームがありました。」……との話あり。

 夏の風物詩である風鈴も、除夜の鐘も騒音問題で、「真夜中に大きな音を出すこと自体が非常識。」との声あり。

 二宮金次郎銅像は、児童労働や歩きスマホを想起させ、熱海海岸の貫一お宮像はDVを表しているとの風評あり。

のようなものである。


 おそらく、このような話はほとんどが人口密集化した東京近在から発信される偏狭なテーマであり、地方中核都市程度で聞くことはまずない。 なぜなら、そうでなくとも地方では人口減が大きな課題であり、産業の誘致、子育て支援を行政の大命題としている中でその不寛容など全くの矛盾、そしてまだまだ地方では悠久の歴史が伝承されていることが多いからである。

 ところが、地方都市でもnot in my backyard(必要性は認めるが、居住地の近くに作られるのは困るという考え)が発生する場合がある。

・自宅が住宅街の角地にあり、その角がゴミの回収集積場に指定された。
・近所に総合病院やそれに付随する商店ができたため、閑静な住宅街が救急車等のアクセス道路と化した。

 そして少し範囲は異なるが、

・静謐な自然環境の観光地であった所が、外国人が増えて喧噪の巷と化した。
・より大型のショッピングモールが郊外に登場したため、近所の小型店舗が廃業し不便になった。
・防衛省自衛隊滋賀地方協力本部(大津市)が作製したアニメの女性キャラクターを用いた自衛官募集のポスターに「セクハラだ」などと苦情が相次いだ。

・原子力関連企業などでつくる日本原子力産業協会が、次世代層向けとしてウェブサイト「あつまれ!げんしりょくむら」を開設し、「ふざけすぎ」「原発事故から数年しかたっていないのに」との批判が相次いだ。


のように、不満テーマには事欠かない。

 他面、「寛容力」をつけるコツというテーマで、

1.「コノヤロー」と思ったら、6つ数え、怒りの爆発は制御できる。 
2.怒った自分に感謝しながら「い~ち、にい~」と深呼吸を繰り返す。 
3.「大きな目」や「鳥の目」「宇宙からの目」になって、自分たちの置かれた状況を大きく客観的に捉えるのが良い。

ということが述べられている。

 このように、Webサイトによる双方向の情報発信が発達した今日では、何事もさも重厚なテーマであるように仕立て上げられ、さも壮大な解決案であるように書き下ろされる。

 ところが、二宮金次郎の銅像が校庭に立ち始めた昭和時代には、スマホはこの世に現れておらず、熱海海岸に貫一お宮像が置かれた60年前には、DVという言葉はなかった。

 風鈴の音が騒音なら、誰も夜店に立ち寄らず、除夜の鐘が轟音公害なら「ゆく年くる年」は放送できない。 古来日本人は、風鈴の音色と打ち水の涼風で猛暑をしのぎ、除夜の鐘に万福を祈ったものだが、それも郷愁となりつつあるかもしれない。

 登下校の小学生が、アスファルト舗装された運動場を無言で歩き、すべての枝葉を払い落した樹木がミイラのように立ち並ぶ小学校とは、マイケルジャクソンのスリラー出演者も逃げ出すような場所である。

 今でこそシャッター商店街が多くなり、皮肉にも閑静となったが、もともと駅前とは賑やかであるべき所であり、そこに静けさを求めるとは恐れ入った話である。

 そして、その解決策が深呼吸して6つ数え、宇宙人に成りすますこととは、これもまた恐れ入りながら、実はこの著者たちは「何代前かの友愛総理のように」ほんとうに宇宙から来たのかもしれないと思いかける。


 チャールズ・ダーウィンは、It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change. (生き残る種とは、最も強いものではない。 最も知的なものでもない。 それは、変化に最もよく適応したものである。)と言っている。 この生き残る種とは、ただの細胞体ではなく、確固たる文明を保持しつつという意味である。

 そのとおり、現代の一部は不寛容社会となったのではなく、時代の変化に不適応社会となったのである。 そして、時代の変化に追随できない己の焦燥を、最も生命力があり変化の激しい幼少者に対し、あるいは最も身近な非抵抗者に対し、吐瀉しているのである。

 その現象が表れた代表的なものが、世界では韓国政府政策、日本では児童虐待事件である。

 1980年当時、日本のGDPは韓国の十数倍であるものの、金額的には数十兆円の差であった。 ところが今日、倍率は5倍であるが、金額差は400兆円となり、韓国は先進国と言えなくはないものの、およそ日本に追随できる容量ではなくなっている。

 領土の東西南北を、日本・中国・アメリカ・ロシアに囲まれた位置にある韓国が、顕著な科学的能力発達も叶わないまま活路を見い出すのは、兄弟国北朝鮮と組んで包囲網の中を蠢くしかなく、核実験・半世紀前の悔恨像建立・垂れ込み外交しかなすすべがないのは、極めて当然のことである。

 アメリカは、第2次世界大戦の太平洋戦線で10万人以上の戦死者を出したが今日日米同盟は強固なものとなり、干からびた捕虜像の建立や卑屈な催しはどこにも見当たらない。 戦勝国としての誇りと時代に適応どころかリードする自信との融合体ゆえである。

 時代の変化に不適応社会であるがゆえに、日本との戦闘経験もなく、誰一人の公式戦死者もない国が、こうまで野卑に振る舞いその応報を招かねばならない運命にあることはダーウィンの示すところである。


 昨今、東京近辺で児童虐待事件・犯罪を見聞することが多いが、その関係者のプロファイルには、地方・海外から東京近辺に移住し、一時は児童相談所も関わり、後から事件当時の記録や兆候も明らかとなるという共通点があるようである。

 後日、その犠牲者の両親や近在の容疑者が逮捕処罰されるのであるが、それらはもとより、対応にあたるべき児童相談所も等しく時代の変化に不適応であるがゆえに、同様の事件は何度も繰り返される。 そして、何年も前から提案されていても、結局行政は手を打たない。

 

以前から存在する文物は不変であり、それに対して寛容から不寛容へ、余裕から逼迫へ変化してゆく根源は、当事者の信条や制度がすべて時代の変化に不適応であるがゆえである。

 それらへの対策は唯一つ、いつまでも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと」曲水宴の歌遊びをすることなく、個々人の寛容性などのセンチメントに依存することなく、「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する」ために、国家が国民を護るための造作を実行することと、「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問う」国民たらんことである。