政権交代

 

政権交代    2009年5月16日


 小沢民主党代表が、政治資金問題の責任をとるということで辞任しました。 その翌日には、鴻池官房副長官がJR無料乗車券の不正利用スキャンダルの責任をとるということで辞任しました。

現在、麻生内閣の支持率は、民主党の敵失ということもあり回復基調ですが、それでも25%程度です。
 
政権交代について考えます。


 宋文洲さんが、「比較」ということについてメルマガを発信されています。 その中で、「人の最大の弱みは比較に頼ることです。 比較しないと価値が分かりません。 スーパーの売り場で、たくさん人が溜まっているところについつい人が寄ってしまい、欲しくもないものを買ってしまいます。 皆に「良い」と言われることに自分だけが「悪い」となかなか言えません。 これらの群れる行為は全部比較に頼る結果です。」と述べられています。

 消費行動においては、確かにそのとおりです。 経済学が前提とするように、人間の欲望は無限であり、満足最大化を求めます。 それが過度の比較を促し、いつまでも満足感や達成感が得られないということにつながります。 良く言えば成果主義ですが、悪く言えば消耗戦です。江戸時代からこのような事例は発生しており、石田梅岩さんは「知足安分」を唱えられたりしています。

 しかしながら、全く比較がなされないために、比較しないと価値が分からないというものが存在します。 日本の政権政党です。

 現在の政権政党である自由民主党は、1955年に結成後今日まで、54年間一度も政権政党から外れたことがありません。 その間には新自由クラブや日本新党の躍進におびやかされたり、日本社会党と連立内閣を結成したりすることはありましたが、野党の立場になったことはないのです。

 日本は、第二次世界大戦後数十年間は、産業再興を図って世界平和に貢献できる国家となるために、欧米資本主義圏に属する必要がありました。 そのためには、数々の政党の中でも、自由民主党が政権政党であり続ける必要がありました。 その目的を達成するため、日経連をはじめ、霞ヶ関・各種事業団体は、企業献金等を介して自由民主党を後援し、また自由民主党はそれらの集団に有利となるような立法を行うことで、その連鎖を継続させてきたのです。

 ところが、この事実上一党独裁とも言える体制は、21世紀の日本の産業構造成熟化ともあいまって、癒着と制度疲労という不可避的な弊害を生じました。 その顕著な例が、旧態然とした金権体質と二世議員を輩出する選挙制度、および政党と霞ヶ関・利権団体のいわば立法と行政のパワーバランスです。

 財務・金融相が主要7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後に酩酊状態で記者会見を行い、日本は大恥をかきました。 総務相の発言には、嫌悪感さえ覚えます。 冒頭のようなスキャンダルの隠蔽化も常態です。 明らかに、一般常識から乖離した人間が、麻生内閣の多数の構成メンバーである状況です。

 大阪で、小学生の生徒がベランダに10時間放置され衰弱死しました。 近所の人は、日常的に異常に気付いていましたが、関わり合いになることを避け、救済できませんでした。 政府は、定額給付金をばら撒いておけば一段落のようですが、現在の一般市民の生活環境や風土はこのような状況です。

 幾多の調査機関が内閣支持率を集計しています。 興味深いことに、麻生内閣は20代以下の若年層で支持率が高く、40代以上の年齢層では低いという現象が起こっています。 従来の常識では、若者は社会・共産系という「左寄り」、ある程度年齢を重ねると「右寄り」に傾いたのですが、全く逆の現象です。

 私は、今年の衆議院議員選挙で、政権政党は自由民主党から民主党に交代してもらいたいと思います。 その理由は、過去54年間成し得なかった「比較をするため」です。 

 上記のような弊害は、自由民主党が長期政権だから生じたのか、日本人固有の体質なのか、一度、完全に自由民主党以外の政党が政権を担当しないと、比較できないからなのです。 いくら選挙運動の間に綺麗ごとを並べても、どちらの言うことが正しいのか、どちらが本当に日本にとって良いのか、交代が実現しないことには全く判らないのです。

 民主党の代表は、小沢さんから鳩山さんに交代しました。 鳩山さんは、「友愛社会」がキャッチフレーズのようです。 何としても、そのとおりの社会を構築して「カンタン」させていただきたいと思います。 そして、日本にも二大政党制を根付かせてほしいと思います。