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2002/11/25 『時代精神の病理学』 (E.V.フランクル;みすず書房) |
“なにしろ自由を持つのは人間だけですし、責任を持つのも人間だけです。
それゆえ自由な決断と責任ある行為に基づいて、いやそれに応じて、責められたり褒められたりするのも人間だけです。”
「責任感のある者に力がなく、権限ある者に責任感がないのは世の不幸である」というような意味の言葉を読んだことがある。
民間選出の大臣がとろうとした政策に「それで失敗したらあんたは責任とれるのか」と言う政治家がいたり、「責任をもって公共事業を推進する」とか主張する地方選出の議員がいるのを見てると、「そういうあんたが言う『責任』って何やねん」とつっこみたくなる。「失敗したら辞める」では「責任をとる」ということにはならないだろう。
“自由と責任は人間の精神性、つまりその本質をなすものです。しかし今日の人間は精神的に疲れており、そしてこの精神的倦怠こそは現代のニヒリズムのまさに本質なのです。”
『時代精神の病理学』という本は第2次世界直後のウィーンで当時の社会状況と心理療法の関係を論じたラジオ放送をまとめたものである。フランクルといえばナチス強制収容所での経験を元にして書かれた『夜と霧』が有名だが、彼の主張を圧縮して表現すれば、「人間は意味を求めて生きている。それが見出せるうちは人間は生きていこうとするし、生きていける。」ということだ。この『時代精神の病理学』の中でも、ニーチェの言葉として頻繁に「生きる理由があればほとんどどんな事態にも耐えられる」と繰り返される。そして「人間はこうした生の意味を満たす責任がある」とも言う。
ところが「運命には逆らえない」と考えてしまったり(「宿命論的生活態度」と表現)、「どうせ明日にはどうなるかわからない」と投げやりな態度になったり(「仮の生き方」と表現)、集団の中に埋没して個人であることを放棄したり(「集合主義的考え方」と表現)、逆にある特定の思考や人に入れあげたり(「狂信」と表現)してしまっており、これは「責任に対するおじけと自由からの逃走に帰着する」としている。
今の日本にただよう閉塞感の奥底には、責任を負うべき人が責任を負わないことよるニヒリズムが蔓延しているのではないだろうか。
2002/10/20 『不幸論』 (中島義道;PHP新書) |
純心な人はこの本を読んではいけない。『不幸論』という言い方で凡百の浅はかで薄っぺらな「幸福論」をぶった切っているので、自分がこれまで抱いていた幸福感の基盤を揺るがすかも知れないからだ。この本は「不幸になれ」なんてことを吹聴しているわけでも、「幸福を追求しても意味がない」なんてニヒリズムを勧めているわけでもない。軽薄な幸福論が許せないだけ、なのだ。安易にある状態を「幸福」だと見なして満足感に浸るのではなく、徹底してこの世の理不尽な現実を見据えようという姿勢を提案してる。この姿勢は私が「肯定せよ、という声が聞こえ」で記したように、“たとえ目の前の状況がどんなに悲惨であっても、いや、悲惨であるからこそ、いったん、それを受け止める。” または “自分を取り巻く一切の環境は自分の過去の一切の営為の蓄積の結果であり、それを乗り越えるために受容する”という発想に通じるものであると受けとめている。
逆に、「自分は不幸だ」と思いたがる人もこの本を読んではいけない。自分が不幸でないことがばれてしまうからだ。
2002/10/06 『アメリカへの警告』 (ジョセフ S. ナイ;日本経済新聞社) |
ジョセフ・ナイという名前を聞いてピンと来る人は、そこそこ国際政治を専門的にウォッチしてる人だなと思う。現在はハーバード大学のケネディスクール(行政大学院)の院長をしているが、クリントン政権下では国防総省の国際安全保障政策担当の次官補となっていた。私のページでもときおり触れているのでこまめに見ている人にはおなじみかも知れない。
ナイ氏が国防総省に在職時に発表した極東における合衆国の採るべき戦略に関する報告書(いわゆる「ナイ・レポート」)に基づいて現在の在日米軍の配備も、日本では悪名高い「ガイドライン」も設定されてきている。もちろん民主党系の人なので、共和党政権下の現在では政治的な影響力はないが、彼の分析や提唱する枠組みというのは注視しておく必要があると思う。
この本の原題は“The Paradox of American Power”であり、唯一の超大国となった合衆国が、あらゆる場面で自らの主張を押し出そうと強固に振る舞えば振る舞うほどその影響力を失い、孤立する恐れがあると警告、そのことを彼の持論である「ソフトパワー」で説明していると言える。
無理やりハードパワーで従わせるのではなく、味方にしてしまう方途としてのソフトパワー。もし彼の主張の通りに実践できるかどうかはともかく、それを志向することは国家にとって無益ではない。
2002/05/20 『ライオンは眠れない』 (S.ライダー;実業之日本社) |
ある日本の家庭の夕食に、一人のイギリス人が招かれている。このイギリス人は中国で不思議な寓話の本を手に入れた。それはいつ、誰が何の目的で書いたのかはわからないが、昨今の日本の政治・経済の状況を見事に記述されていた。
それは「龍」の国の隣にある、「鼠(ネ)」の国の話である。この国ではこれまでも様々な動物が王を継いできたが、情勢は悪くなるばかりであった。そこである時に王位を継いだライオンが、思い切った政策を採ることで、累積赤字を一挙に解消しようとしたのだ。それは「X計画」と呼ばれていた。しかしそれはあまりにも国民への「痛みを伴う」政策。その影響の大きさのあまりに思い悩んで、ライオンは夜も眠れないのだ。
その「X計画」の中身なのだが、今ここで書いてしまうと、まだ読んでいない人にとっては読む楽しみが半減するので敢えて書かないが、その実施策は極めてリアリティを持っていると私は思う。おそらくこの方法を採れば日本財政は一挙に好転するだろう。けれども民間は大きな痛みを受ける。さて。近い将来、これが実施されるのか?
2002/03/27 『戦争とプロパガンダ』 (E.W.サイード;みすず書房) |
9.11以降、国連では包括的なテロ禁止条約を策定しているが、なかなかまとまらない。条約の冒頭には、その条約が対象とするものの定義が必要だからだ。「テロ」と「独立運動」との違い、もっとも露骨に言えばパレスチナ人がイスラエル人に対してやっていることをテロとみなすのか否かってことが未だ定まってないということだ。
投石する若者は私たち[パレスチナ人]にとっては巨人ゴリアテに対して闘う少年ダビデであるが、たいていのアメリカ人はヒロイズムよりも攻撃性をそこに見るのだ。イスラエルは、合衆国がタリバンをテロリスト集団として攻撃してるのと同じ構図を引きたいのだ。サイードはそのことを強く指摘する。
一方にとってのテロリストは他方にとっての英雄にもなりうる。サイードはそれを否定しない。
2002/03/18 『暗い時代の人間性』 (H.アーレント;状況出版) |
アーレントは「暗い時代」には、人々は、自分と同じ事を言い、慰めあってくれる人々と寄り集まって、狭い世界に閉じこもろうとし、その世界の外側の出来事に対しては無視をする傾向を持つ、と言う。
歴史の中には、公共性の空間が暗くなり、世界の永続性が疑わしくなって、その結果、人間たちが、自らの生活の利益としてき自由を適切に考慮に入れてくれることしか政治に求めないことが当たり前になってしまう時代があります。そのような時代を「暗い時代 finstere Zeiten 」と呼ぶことには一定の正当性があるでしょう。そうした時代に生き、そうした時代に教育を受けた人々は、恐らく常に世界とその公共圏にあまり関心を持たず、できる限りそれらを無視しようとします。
共通の世界は、人間たちによって持続的に語り継がれない限り、文字通り “非人間的”なものに留まることになります。
私たちは、自分自身の内で、そして世界の中で起こっていることについて語ることを通して、それを人間化(vermenschlichen)するのであり、また、そうした語りの中で、私たちは人間であることを学ぶのです。
2002/02/12 『戦後民主主義のリハビリテーション』 (大塚英志;角川書店) |
著者の名前をみてピンと来る人はピンとくるんだろう。「論壇の人」というよりは、やはり「マンガの原作者」とか「編集者」という位置付けをなされることのほうが多い人だとは思うし、往々にして「評論家」として大衆社会の社会現象を批判する立場ではなく、その社会現象を引き起こす・形成する側の人であるというイメージが強い。はやい話がサブカルの人だ。けれども、いや、だからこそ、現代の社会がもつ、どうしようもなさを的確に指摘できるのかも知れない。
例えば1970年代の安保闘争みたいに…って、ひょっとして「それなに?」って言わないよね?…「反体制」運動が安心してできるってことは、それだけ体制側がガチッとしてて、反対するに足る存在だったからだって側面があるんだ。80年代以降、それは急速に解体され、ヘナチョコになっていく。力入れて反体制運動なんかしちゃうと、根元からポキッとおれちゃうか、ヘナってしな垂れてしまいそうなのだ。意味を解体することがお洒落で流行だった時代も確かにあった。サブカルってのはそういうもんだ。でも、現代は、ズラして楽しむべき意味が共有されてなくて、意味をズラしたことを理解してもらえなかったりして、サブカルすら存在の聞きに瀕している。ってことで意味を再構築・リハビリしなちゃならないっていう趣旨の本なのだ。(と私は思う。)
2002/01/16 『民族とは何か』 (関曠野;講談社現代新書 1579) |
冷戦が終結したころから「民族問題」とやらが噴出しだした。もちろん「民族」の問題は遥か昔からあったのだし、東西の対立の構図の中で包み隠されていたという面も否めない。しかし、私の従来の理解では、国家が恣意的・人工的に作られたものであるのと同様に、「民族」というものも人工的な概念であった。思いきり単純化して言うなら、「民族」は「私たち(と同じ仲間)という意識の及ぶ範囲」ということだ。しかしそのような範囲が普段の生活で往来する範囲を超えて広がるには、教育だの広報だのと言った、国家(少なくとも生活圏を共にしない人々の間を束ねる制度)を介在した情報を伝達し共有化させる仕組みが必要なのだから。
…という「民族」に対する私の理解が、実はアーネスト・ゲルナーとベネディクト・アンダーソンの主張に近いものだったということをこの本を読んで初めて知った。世の中にはかなり多くの「民族問題」に関する書物はあるが、これはその中でもかなりコンパクトにまとめられている、いい本だと思う。著者独自の論の展開部分に首肯するかどうかは読者の判断にまかせるが、「民族」について考えたい時には入門にはよいと思う。
2002/01/07 『人道的介入』−正義の武力行使はあるか− (最上俊樹;岩波新書 赤752) |
リアルに物事を考えるには、「主語は何か?」と問いかけてみればよい。「自分の身に当てて考えてみる」なんてことをしてみても、本当に自分に火の粉がかからない限りリアルな思考にはならない。
社会全体には大事なことなんだけれど、それを自分が実行するのは気が引けるなんてことも世の中にはざらにある。時折テレビニュースなんかで伝統工芸品の職人さんの後を継ぐ人が居ない、なんてことをレポーターが語ったりする。ニュースで取り上げるべきだという判断がなされたと言うことは、それだけ社会的な問題だ(少なくともほうっておいていいことではないという判断がなされた)ってことだ。でもそのレポーターは「大変だ」とは言うが、自分がその後継者になろうとは決してしない。発せられた言葉とは裏腹に、自分の今の仕事を投げ出してまでそれに従事するほど重要じゃないと思ってるよってことを白状してしまっている。
そう、誰かがやればいいやって思ってるってことは、それだけ自分にとってどうでもいいってことなんだ。自分の存続に関わる問題じゃないってこと。
自分の周辺の国で多くの人が迫害で苦しめられているという状況を知れば、何かしてあげなければと思うだろう。けれども、彼らをその状況から救うのに武力しか方法がないとしたらどうすべきだろうか? 武力で介入すれば犠牲が0なんてことはないが、介入しなければ迫害の被害者は増加する。そういうジレンマのもとで、それでも人を救いたいと思ったときどうすればいいのか。単純に「暴力反対!」と叫んで、安全な日本でプラカードを掲げてデモ行進をしてればいいのか。なし崩し的に自衛隊を軍隊として派兵してしまえばいいのか。私にはどちらもノーテンキにしか思えない。
本当にこの問題についてリアルに考えたいのなら、この本を読んでからもう一度考えてほしい。
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Updated : 2002/11/25
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