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最近、地域紛争の戦後処理として、紛争中の人権侵害の加害者に対する対処が変わりつつある。
これまでは虐殺・人道に対する犯罪・戦争犯罪など、紛争中に重大な人権侵害があった場合、国際刑事裁判所を設置して裁くことになっていたはずだ。つまり、基本的な方針として犯罪は徹底的に追及してその責任を負わせるということ。ところが、最近では「真実・和解委員会」などが設置され、何が行われたかを明らかにはするけれども、敢えて免責し、紛争後の社会再生のために和解を優先するという動きが現れつつあるということである。
顕著な例としては、南アフリカ共和国のアパルトヘイト時代の負の遺産に対する解決として、「アパルトヘイト犯罪の抑圧及び処罰に関する国際条約」(1973)に基づく国際刑事裁判所の設置によって責任追及することも可能であったが、マンデラ大統領(当時)が優先したのは国民の和解だった。その時マンデラ氏はこう言った。
「許そう、しかし忘れてはならない。」
と。
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「短い20世紀」とは、第1次世界大戦が始まった1914年からソ連が崩壊した1991年を指すが、この提唱を行ったのが、この本の著者・ホブズボームである。そんなこともあって、この本を買って読んだのだが、思ったほどわくわくしなかった。著者の執筆ではなくインタビューなので、斬新な論理展開で切りこんでいるというわけではないからだ。
どんなに優秀な歴史家であっても、これからのことなんて予言ができるわけはないのだから、ある意味しかたがない。
予言が的中するのは、自然法則に適った事象を説明する場合か、その予言を信じる者たちがその予言の的中のために努力を重ねた場合に限る、と私は思っている。結局、未来は「どうなるか」ではなく、「どうするか」なのであって、複数の「どうするか」の思いの力の「合力」の方向に動いていく。ブラウン運動みたいなものだ…と思うのだが。
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この著者名を見て、くすっと来た人は結構、マニアックな人だろう。…というか、私がこのコーナーで「その他」で挙げている本を「面白い」と思う人種なんだろうと思う。たぶん、普通の人は読まない。読んでも顰蹙を買う。何しろ、封建主義者を名乗り、「人権」至上主義に揺さぶりをかけるからだ。しかも博覧強記でいろんな論拠を示すので、論理的に反駁するのが結構難しく、しかも(公式には表明できないけれども)心情的には「それも一理あるよなぁ」という切り口を示すからだ。
「危険」なのは、例えば人権を至上のものと思わないことではなくて、人権を至上のものと表明しているにもかかわらず、他の人権を圧殺し、しかもそのことを人権擁護の名の許に正当化して自らの正しさを疑わないこと。
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この本は、最終章の最終節・「世界の残酷さ」だけでも読む価値がある。
自然界の生死のサイクル・食物連鎖−生き物は他の生き物を殺して食って生きていくという事実−と言う残酷さの中にあり、人間はこれに人間社会の残酷さを追加して生きている。これに抵抗する微弱な力こそが魂を守るのだ、とモランは言う。
我々は、分かつもの、解体するもの、遠ざけるものに対して、たとえ自分が負けるとわかっていても、抵抗しなければならない。
20世紀は「匿名の世紀」であったと思う。人間(たち)をばらばらにし、無名化し、匿名化し、社会の部品と化していく。それがモランの言う「世界の残酷さ」の一部なのだろう。
世界の残酷さに抵抗するということは、分離の中での結合を維持しようと試みること、自由なものを自由にさせておきながら結びつけようと試みること、許しを与えながら改悛を喚起しようと試みることでなければならない。
(中略)
人間にあって、世界の残酷さに対する抵抗という形をとる、果てしない絶望的な努力の継続、これこそ、私が希望と呼びたいものなのだ。
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以前、所ジョージの本について書いたことがあるが、やはり所もたけしも現代日本における Fool だな。(「ばか」じゃなくて、「道化」だぞ。)国王のそばにいて国王を茶化すことができる替わりに、さほど権威があるとも思われていない。でもその事で全体の「ガス抜き」になる、という存在。書いてあることは結構無茶なことで、「人権派」な人からは必ず指弾される。けれども一理あり、「ホントに誰かやってくれないかなぁ」と思わせる面がある。 中途半端な国会議員より頭いいんじゃないかな、なんて思ってしまう。
単なる茶化しにも読めるけど、たぶん、究極の保守だな、この本で展開されてる発想は。
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20世紀も残すところ後わずかである。21世紀が来る前に、「20世紀とは何だったか」という問題に自分なりの回答をまとめようとずっと考えてきたが、この本を読んで、これまでの結論をまとめられそうな気持ちになった。
『幻滅への戦略』でも触れたが、もっとも短い「20世紀」は、第1次世界大戦の始まった1914年から冷戦の終わった1991年までである。…が、私の今の回答は違う。実は合衆国独立戦争(1775-1783)・フランス革命(1789)あたりから始まる、「長い19世紀」の一部なのではないか、ということだ。19世紀の世界から何か質的な変化を伴って20世紀が訪れたのではなく、19世紀の産物をより極端化することで成立し、破綻してきた世紀ではなかったか、ということだ。もし、21世紀を「希望の新世紀」にしたいのであれば、それは「長い19世紀」(それはもう、ほとんど「近代」そのものと言ってよい)をひっくり返すだけの文明観の転換を必要とするだろう。
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『キッシンジャー博士 日本の21世紀を予言する』とタイトルには書いてあるし、帯には「日本は必ず核武装する」とか書いてあるけど、読んでみると、それちょっと違うやんって感じ。要するに、この本の大半は日高氏の記述で、その間にキッシンジャー氏へのインタビューが入るというもの。インタビューの中身は肝心なことは微妙にごまかしてる。核武装に関しても、そういう選択肢があるね、という程度にしか言ってない。そりゃあねぇ、日本には核兵器を開発するだけの技術も核物質も十分にあるもん。
それにこの本自体は今年の9月発刊だけれども、インタビューそのものは昨年中に行った形跡がある。話の中ではロシアの大統領はまだプーチンじゃないし、ユーロは高くなるとか、朝鮮半島では何も起らないとか、基礎になる情勢認識が、インタビュー時点と発刊時で異なってるんだけども、そのまま出すって、出版社の怠慢じゃないかなぁ。世界情勢を論じてる本なんだから、せめてそういう箇所だけは差し替えるとか、最新の情報でアップデートするとか工夫してほしいよなぁ。
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大事なのは「この世に生きる意味は?」などと問うこと、なのではない。現に私が、そしてあなたが生きている、その事実に着目することだ。意味が「ある」のかと徹底的に問えば、論理的な終着点どこにもはない。生の無根拠性に気づかされるだけだ。問題はそこから先。「だから」生きるに値しないと考えるか、「にもかかわらず」生にイエスと言うのか。
フランクルはこの本の中で、人間が生きる上において、さまざまな前提を必要とし、それにより制約されると言う。けれどもその「制約」は「原因となる」「決定される」ということを意味するわけではないとも言う。人間は、そういう事実を超えてゆく、「制約されざる」存在なのだと説く。
現に自分が生きているという事実は、口でどう言おうと、自分の生を肯定しているということなのだ。
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「テロリズムは戦争である。心の戦争である。この戦争では血が流れる負傷よりも、心に受けた傷のほうが重大である。」
…この本を一言で要約すれば、後書きの部分に書かれているこの1文に尽きる。
テロリズムの本質は精神的強制行為であって、大規模な戦闘を行わずに不安に陥れ、自分(たち)の望む方向に誘導する戦術である。
もちろんこの本だけでなく、通常「テロ」と言えば政治的な主張を、社会不安の情勢によって実現しようとする集団による行為を指しているのだが、どうも最近頻発している、キレた者達による犯罪も、いつどこで誰が犠牲になるかも知れないという点、社会不安を醸成し、少なくとも自分の主張はその時点では通りそうになるという点、社会(道徳・信頼感)に対する攻撃という点で、じつは「テロ」と紙一重なのではないかという気がしてならない。ちょっとまだ、結論は出ていないのだが、もしテロなら、「更正」なんてのんきなことを言ってないで断固として排除することを考えねばならない。。。。
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「文化」と言えば、昔々は「ハイカラ」なものだった。何しろ、先進的でおしゃれなものは「文化○○」と呼ばれてた。
かなり初期のSFを日本語に訳すのに、今で言えば掃除機のことを「文化女中機」なんて訳してた。(今、こんな訳をしたらフェミニストから猛攻撃を食らうに違いない。いや、まあ、supermarket のことを概念がわからずに「超市場」なんて訳してた時代だから大目に見てあげよう。)
でも、今は、「文化」ってなんか時代遅れのものを指してるような雰囲気がある。ちっともイケてない。そもそも漢字で「文化」なんて大書できる、社会の共通様式だの、憧れの的だのってのがなくなってしまったからだ。みんなサブカルになってしまった。だから「文化の研究」ではない。「カルチュラルスタディーズ」なのだ。
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いわゆる古典というものが読まれなくなって久しいわけだが、それは古典の古典たるゆえん(単に古いというのではなく、時代を経てもなお新鮮さを失わない内容の深さ)が喪失したのではなく、単純にそれを読解できるだけの理解力を現代人がうしなってしまったことによる。いい意味での「教養」を持っている人が極端に少なくなっているのだ。
中江兆民と言っても、「社会の時間に習ったことがある」と答えるのはまだマシな方で、「誰、それ?」と言う人が多いのではないだろうか。「東洋のルソー」と呼ばれる民権思想家なのだが。
まあ、いいや。とにかくこの本では、題名の通りは3人の人物が登場する。裏のご隠居的存在の「南海先生」のもとに、理想主義的民主主義者の「洋学紳士」と、現実主義的ちょっぴり軍国主義者の「豪傑君」がやって来て、酒を酌み交わしながら天下国家を論じるという展開である。
関連リンクとしては、“今こそ読む兆民「三酔人経綸問答」”あたりをどうぞ。この記事を読んでこの本を読んでみたくなった。
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算数で初めて2桁の繰り上がりと言うものを習った小学生に、3桁の計算を出題したら、「まだ習ってな〜い!」と言うだろう。で、3桁の計算を教えた後に4桁の計算を出題したら、それでも「まだ習ってな〜い!」と言うかも知れない。
でもちょっと考えてみよう。恐らくこのページを見てくださる方は20桁の繰り上がりのはいった筆算を計算できるだろう。でも、そんなものは算数や数学の時間で、習ってことはないはずだ。仮に500桁の計算を出されても(めんどくさいという点をのぞけば)計算できるはずだ。
これは(それがいつのことなのかは思い出せないにしても)習って行く中で、自分でルールを見出し、自分で習得したからなのだ。
この本は、哲学するとはどういうことかを平易に書いているのだけれども、この本で学んではならない。この本なしで自分で考えるように成らなければ、この本を読んだことにならない。
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最近、キレる子どもがいっぱい出てきてて、「社会」とか「学校教育」のせいにされてるんだけど、反社会的な子どもを作らないってのは躾の成果であって、学校教育でできるものじゃないよなぁ。
この本での議論を読んでて面白いなと思ったのは2点。
1つは、いま、教育制度の問題がとり沙汰されてるけど、仮に「改善」されたとしても、その影響は、今から教育を受ける高々1000万人程度で、残りの1億人はほうって置かれてるってこと。まあ、変なヤツもいるわけだけれども、ほうって置かれてる1億人の方はそれなりに社会の中で生活してる。仮に学校教育ってやつを受けてなくたって立派な大人ってのはできるんだってば。妙に「権利」とか「自由」とかいう言葉(概念じゃないぞ)を知ってるうるさいガキのほうが質が悪い。
もうひとつは、最近、学生の学力低下が騒がれて、分数のできない大学生とかが話題になってるけど、そういうのでも高等教育が受けられる(学問を修めることが出来るかは別だけどね。)ってのは、それなりの進歩だってさ。「ああ、こんなんじゃ日本の未来はダメだ、だめだ!」って言って大学生の自信を無くさせるほうがよほど日本のためじゃないんじゃないかって。
うんうん、そう思うぞ。
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ひょっとしたら、『プロジェクトX』に出てくるような人たちを、仕事や企業に埋没させられた、かわいそうな人たちと見る人もいるのかも知れない。そういう目で見れば、個人の生活をとことん犠牲にして「滅私奉公」っていう感じに見えなくもない。では、その人たちは洗脳されてプロジェクトに投入されて行ったのか? いや、そんなことはないだろう。
確かに彼(女)らは「いい仕事」をしたのだ。
私も、誇れる仕事ってのをやりたいと、『プロジェクトX』を見るたびに思う。
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2000/08/28
『豊さの破綻』 (水谷研治;PHP研究所)
『日本経済これから2年が正念場』 (高橋乗宣;PHP研究所)
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毎年秋になると、その次の年について、「20XX年はこうなる」的な本がでる。発表する研究機関によって、楽観的なところと悲観的なところというクセというか傾向があるので、一通り読んでその平均をとれば、まあ、あたらずも言えでも遠からずという視野が得られる。
いわゆる「エコノミスト」の中でも、長谷川慶太郎氏がいつも強気のイケイケ路線で予測をするとすれば、上記の2人は弱気…とは少し違うが、ややネガティブで、警鐘をならすタイプの論調で記述されている。だから、そのあたりを割り引いて読むか、一挙に「エコノミスト」本を複数買い込んで読み比べをする。それでバランスをとる。
上記の本における彼らの主張は、要するにまだまだ日本の景気はよくならない、ということだ。
個人的には、まだ日本の経済界の健全な自己改善能力に期待を持っているので、もうすこし待てば、と思ってはいるのだが。
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…とは言うものの、本当に「自分の頭で考える」というのは難しい。特に哲学っぽい本を手に取るたぐいの人種と言うのは、自分の頭で考えているつもりでも、結局誰かの考えを踏襲して、「カントにおける○○」とか「ヘーゲルにおける△△」とか、「ニーチェにおける××」という答えを出してしまいがちである。で、おうおうにしてそういう文章は、圧倒的大多数の人々の心を打たない。おそらく最初は生々しくビビッドな問題であったはずなのに―というのはそれぞれの哲学者が最初にそれぞれの疑問にけつまづいた時の疑問やモヤモヤと格闘して得た答えなんだから―、本になり古典になってしまったら、その当初の問いと格闘はどこへやら、いつのまにか、自分で考えるのではなく、学ぶものになってしまっている。
じゃあ、そんなものを読まなきゃいいのかっていうとそうでもないので始末が悪い。
哲学書とか思想書とか、いい意味での古典を読まないで、「自分で考える」と主張して自説を展開する人というのは、往々にして数百年前に議論し尽くされて否定されている議論を、「自分が初めてたどりついた」と思って自身たっぷりに言う。当然ながら、そういう議論を知ってる立場から見れば、「いまさら何言ってんだかぁ。」と思いながら(論破するのではなくって)たしなめるわけだけど、すると、「いやいや違う、それは本当の○○ではない。」と反論する。いやぁ、だから、「本当の○○」っていう発想自体が、プラトンのイデア論的発想なんだってばぁ。
…とかく、本当に「自分の頭で考える」というのは難しいというお話でした。
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現在、アメリカ合衆国では大統領選挙の最中である。最終的には共和党・ブッシュ氏と民主党・ゴア氏の対決となった。ここ8年間、クリントン政権(ということは民主党政権)が続いているわけだが、伝統的に民主党が優勢だった下院では、現在、共和党側が多数を占めている。1994年の中間選挙で実に40年ぶりに下院の過半数を制したのである。この動きの背景には、共和党を推そうとする、新たな保守勢力が生まれつつあるという指摘がなされている。
アメリカ合衆国でいう「保守」「リベラル」を日本でいう意味とは異なる。ニュアンス的には逆といったほうがよいかも知れない。誤解を恐れずに言えば(いや、確実に誤解されるだろうが)、合衆国では伝統的に、公共投資で地元を潤わせようとして大きな政府にしようとしてしまうのが「リベラル」であり、「自分のことは自分でやるから国は手を出すな」という感じが「保守」なのだ。世界に打って出てガンガンやりまくるのが「リベラル」であり、大草原の小さな家で過ごそうとするのが「保守」なのだ。
ソ連の崩壊以後、アメリカの一国覇権路線を確実に展開しているのは、「新世界秩序」を言い出したブッシュ大統領(共和党)政権下ではなく、クリントン大統領(民主党)政権下である。大統領個人の資質、というのではなく、それにつらなる Machines(大統領側近のブレーン達をこういう場合がある)の意志なのだ。現在、ロシアや中国がやや反米色を強めているのも、その覇権傾向があまりにも強いためだとも見ることが出来る。じつは合衆国内部でも少しやり杉ではないかという議論も出てきており、その流れがどの程度になるかによって、次の政権が決まるであろう。
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なんて言うんだろ、こういう本。
例えば『ワニの飼い方』とか『宇宙船の運転の仕方』とか、役に立たないハウトゥ本と言うにはあまりにもリアルだし、すぐに役立つかというと、そう言う目にはまずあわない。でも絶対あわないかというと、そうでもない。知ってると、ひょっとしたら助かる命も出てくるだろう、という代物。
でも、基本的に、アメリカで書かれた本なので、日本では、まず使うことのないものも書いてある。
「雄ウシの大群が押し寄せてきたとき、その方向を見定めてその進路からはずれること。」というのはいいけど、「逃げられない場合にとるべき唯一の方法は、大群と一緒に走り踏み潰されないようにすること。」には笑ってしまった。
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なぜ人を殺してはいけないのか−
この問いは繰り返される少年による殺人事件などをうけて、TV討論番組で何気なく提出された疑問に、居並ぶ大人が答えられなかったことから有名になった。この問いに対し、いくつかの答えは考えられるが、それらが往々にして不充分であることを著者は指摘する。
例えば、「君は殺されたくないだろう。君が愛する人を殺されたくはないだろう。だから人を殺してはいけない。」という議論は、「殺されたくない」ことと「殺したい」こととは十分に両立可能であることから必ずしも「正しく」はない、と言う。
もちろん、著者は、人を殺してはいけない論理的な理由が見つからないからと言って殺人を容認しているわけではない。巷間にあふれる「人を殺してはいけない理由」が、人間の心理の内面的な問題に閉じ込められ、問う方・答える方の良心を前提にした問答になっていることの限界を指摘しようとしているのだ。
過失であれ、怨恨であれ、欲得であれ、命令であれ、自己防衛であれ、とにかく、人は人を殺してしまう。それでも多くの人は人を殺してはいけないと思っているだろう。その倫理の原理的な根拠は、おそらく論理的には得られない。でも、そう多くの人が考えることで共存が可能になる。
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ひゃっひゃっひゃっ。はっきり言って、この手の本って大好きなの。
荒唐無稽なことを、科学的に、精密にはどうなるかって考えるのって、知的な遊戯としては最良の部類に入ると思う。
この本の冒頭に載っている、アルプスの少女ハイジのブランコの話(…って知ってるかなぁ。番組のオープニングでハイジが乗っていたブランコなんだけれども、映ってたそのままの時間で漕いでいたのだとすれば、それを実現するためには地上137mからぶら下がった長さ37mのブランコでないとだめで、その長さだと、最下点での速度は時速72Kmを超えるという計算結果。)が電子メールであちこちに配信されてチェーンメール化したそうで。私の手元にも来ました。
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「普通の国」とは、小沢一郎・自由党党首の従来からの主張である。
ここ数年、日本の政治の1つの軸は小沢−反小沢でありつづけた。それは彼の目指す政策を是とするか非とするかというよりは、彼の手法に対する反感が機軸であったといえる。
しかし、必ずしも著者は小沢氏よりの人間ではないが、近年の政治情勢を判断するに自民党が初めて下野したときから、小沢氏個人への評価はともかく、日本は確実に「普通の国」になりつつあると判断し、それをまとめたのがこの本である。
…ということは小沢氏は「正しかった」ということなのだろうか?
偶然にも小沢氏が目指す政策を実現しなければ対処することが出来ない事象ばかりがここ数年で起ったのだろうか。
それとも、単に、小沢氏に対抗できるだけの構想力を誰も持たないので、その他の人間が自分の政策として摂り込んでしまったのか。
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日本語の「脳死移植」というのは、そのまま外国語には訳せないそうだ。これはちょっと不思議かもしれない。「脳死」は“Brain death”だし、「移植」は“transplantation”だから、それをつなげればいいではないかと考えそうだが、ニュアンスが異なるようである。…というか、「脳死移植」という言葉じたいに、日本の脳死に考え方が表出されてしまっているのだ。
脳死は脳死でそれだけで考えることができるはずだ。一方、移植(正確には臓器移植)もそれ独自で考えることが可能な概念である。たまたま臓器の提供先の1つとして、「脳死者」からの臓器提供がありうるということだ。日本の場合、臓器提供を前提とした脳死の議論が主流となっていることを「脳死移植」という言葉は表している。
今、「脳死者」という言葉を使った。実はこれも1つの判断を既に内包した言葉である。「死者」と言いきってしまっている。ほぼ、脳死は人の死であるということを前提にした言葉だ。概念的に脳機能の不可逆的停止状態であると理解できても、目の前に肉親者がその状態で横たわっているとしたら、平然と「死者」とみなせるであろうか。そのとき目の前にいるのは、「脳の働きの止まった人」ではないのか。この状態を死とみなすのか否かは、医学の領域だけでなく、その人と家族を巻き込んだ、死生観と密接にかかわる問題ではないのか。
このような状態の人を指して、著者は「脳死の人」という言い方をする。
必要なのは医学的知識ではない。死とどう向き合うかと言う、生きる側の決断である。
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F.フクヤマの最新作だ。
かつて冷戦終結直後に『歴史の終わり』で話題となり、その次の『「信」なくば立たず』で社会を構成する重要な要素としての「信頼」に関して概説した著作を受け、その社会的信頼(本著では「社会資本」と表現されている)が崩壊している現状を書いた本と言える。
例えば、毎朝通勤電車に平然と乗っているのは、そう多くは事故は起きない・きちんとほぼ時刻どおりに運んでくれると思っているからだし、座席にすわって安穏と居眠りができるのは、そんなことをしても襲われることがないと思っているからである。そうやって安心して社会生活が送れるというのは大きな「資本」だというわけだ。そういう、生活の基盤ともなる社会資本が、先進国で同時に全面的に崩壊−大崩壊−しているというのが要約である。
あとがきにもあるが、大崩壊へと向かう社会の現状を統計データなどから淡々と記述している部分がほとんどで、最近の経済学・社会学・生物学の研究の動きを追跡している人にとっては特段に新しい知見が得られるというわけではない。
正直なところ、私にとっては目から鱗が落ちるような話がなかったのですごく退屈だったが、ただ一つ、最後の一言にだけは賛同する。
われわれが希望をもちうる唯一の理由は、社会秩序を復元する強靭な能力が人間に生まれつき備わっているという事実である。歴史がよい方向に進んでいくかどうかは、この復元作業がうまくいくかどうかにかかっている。
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この本の前半部の中心課題は「価値」である。
ネットワーク化社会では必ずしも価値は貨幣と結びつかない。影響力(この本では「インフルエンス」と呼んでいる)や尊敬(同じく「リスペクト」)とがものを言う。稼ぎたかったらその2つを手に入れてとにかく有名になることだ。そしたら人がついてきて、投資しようという人が現れて、ビジネスが成立しちゃうのだ。
繰り返そう。必ずしも価値は貨幣を通さなくても流通可能なのだ。
「オールド・エコノミー」と「ニュー・エコノミー」とか言われている得体の知れない分類を、もし無理やりにやれと言われたら、たぶん、このことがわかってる人達がやってることが「ニュー」なんだろう。
…というわけで、最近、ちょっと真面目に貨幣論を考え始めてる。貨幣を通さない価値流通論をぶち上げたら、実は『資本論』みたいな本が書けんじゃないかな。(と大風呂敷。)
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はっきり言って、今回のはキレが悪い。毒もないし、不勉強なのがバレバレ。だめだこりゃ。
(だったらここへ書くなって?)
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20世紀といえば暦の上では1901年から2000年までであるが、歴史上、いろいろな区分がなされている。もっとも短い「20世紀」は、第1次世界大戦の始まった1914年からソ連が崩壊した1991年までである。
ならば、「21世紀」はいつからであろうか。
この本を読んでいると、1999年3月、コソボ空爆によって21世紀(の戦争)が始まったという気がしてくる。
まず、コソボ空爆は、「人権の名における戦争」であった。これは新たな「聖戦」を生み出すのではないか。「人道」と言う「普遍的な」価値に従い、戦争を遂行するなら、「敵」は「人道の敵」「人類の敵」だ。もはや交渉の余地はない。帰結される命令は「殲滅せよ」だ。そしてこの「戦争」を技術的に支えるのは情報通信技術と宇宙航空技術である。そんなもの以前からそうではないかといわれるとそうなのだが、合衆国は既に、世界各地の上空への衛星配備、リアルタイムの情報収集、その迅速な解析を可能にするシステムをそなえ、その実戦配備実験がコソボであったというわけだ。それがなければ、(いくつかの誤爆はあったが)ビル単位の爆撃という作戦自体が無効なはずだ。従来の技術と方式なら、地域一帯の封鎖と絨毯爆撃しかできない。
地球上は常に合衆国によって見張られている−最近ちょっと話題になっているエシュロンが事実だとすればそれも含めて−というパノプティコン的な状況に置かれてしまったというわけだ。
この観点からは、インドの核兵器開発や、EU・中国・ロシアによるNMD構想への反発は、合衆国の情報支配戦略への拒否反応であると読むことができる。
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ニュースなどを見ていると、現在の社会状況は「自分さえよければ」という行動を採る人があまりにも増えてしまったからだと説明されることがままある。「自分中心主義」だとか。ならば、その解決策は「みんなのために行動するようにと心がける」ことなのだろうか。もし、一斉に全員がそうするなら問題はない。そこに時間差や行動への現れ方に差異があってはならない。なぜなら、その場合、正直者ほどバカを見ることになるからだ。みんなが「みんなのために行動する」なら、自分だけはそのように行動しないでその結果だけを享受するほうがよほど「利口」だからだ。いわゆるフリーライダーの問題である。まじめにやるよりフリーライダーのほうが利益が上なら、誰も自発的に全体に貢献するように行動はしないだろう。
しかし、ちょっと待って欲しい。私たちは日々の行動において、本当に自己の利益を最大化するように行動しているだろうか? 長期的な利益でなくてもいい。短期的な、目の前の利益ですら、本当に精緻に計算して決断していると言うことは稀なのではないか? 実は「みんながそうするから」そうするのではないのか?
「みんなが心がけましょう。」とか「子供のころからの教育で、思いやりの心を育成しよう。」だけでは、その、純朴に思いやりを持つ人だけが食い物にされてしまう。そういう発言をした人の意図とは異なった、より残酷な結果が待っていることになるだろう。この本はそういう問題点を指摘している。では、どうすべきなのか。圧倒的に多い、「みんながするから」派の人が、自発的に全体への協力をするようなインセンティブを内包したしくみを準備すべきである、ということだ。
さて、次の問題。そういうしくみを誰が、どうやって準備するのか?
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この本は、新聞の死亡記事の大きさで20世紀の人物の「大きさ」を測ろうとする、不埒な本である。
しかし、やはり爆笑問題(の太田)はキレル(キレてる、じゃないよ)なと思う。昭和54年の9月4日付各新聞にはパンダのランランと落語家の三遊亭円生師匠の死亡記事が掲載されているわけだけれども、パンダの死のほうが扱いが大きかったりする。コアラブームの時に動物園で相次いでコアラが死んでいった記事に触れて、
「まわりで人がバッタバッタ死んでいるのに、狂ったようにコアラを可愛がってんの」
と切りこむあたりは(表現はともかく)、鋭いところをついている。
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使命感―おそらくこの本に書かれている登場人物を支えているものはこれなのだろう。
ひょっとしたら、このような、自身の危険を顧みず、与えられた仕事を様々な犠牲を生みながら成し遂げて行く姿勢に対し生理的な拒否感を持つ方もおられるかもしれない。組織や国家への個人の埋没だという人もいるかもしれない。元気のない現在の日本に対し、「昔の日本はこんなにもよかった」という回顧ムードを高めるものに過ぎないと言う人もいるかもしれない。しかし、この『プロジェクトX』に登場してくるような人々の、文字通り汗と涙と血と汗の(場合によっては命の)成果の恩恵を受けて現在の私たちの生活があることは紛れもない事実だ。
百歩譲って、これらの登場人物を行動に駆りたてる動機が組織上部からの命令であったにしても、人が困難に直面し、格闘し、克服して行く姿を否定することはできないだろう。そのことに対し、自らの命を使おうと決めた人たちの強さを感じずにはいられない。
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NHK特集で「世紀を超えて」というシリーズをやっている。そのサブテーマの1つが「いのち」だ。脳死患者からの臓器移植を受けた人や、家族の臓器移植に1度は同意したものの、その選択が正しかったのか今なお悩んでいる人々、自分の死の日と場所を自分で決めたいと願う人々。そういう人達の苦悩(時には喜び)を取り扱っている。このような生きるの死ぬのなどという問題は、平凡に暮らしている「健常者」には考えなくてよいテーマなのかも知れない。もしくは、このような問題はそれぞれの人間がそのような状況に直面した時に、それぞれの立場で、それぞれの価値観で対処すべき問題で、学問として体系つけられる類のものではないのかもしれない。生死の問題、と言っても必ずしも老いてから考えればよいというものでもない。これは、Eyesの「生命は平等に価値がない」でも書いたことだけれども、「ひょっとしたら次の瞬間、交通事故に遭ってしまうかも知れない。狂信的な集団の思いつきの巻添えを食らうかも知れない。近隣の国のミサイルが突然頭の上に落ちてくるかも知れない。それでも人は生きていく」わけだ。生き物として生まれてきた以上、いつかどこかで死んでいく。その時どうするのか。死の受容―これが今必要なのではないか。
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2000/06/19 『プチ哲学』 (佐藤雅彦;マガジンハウス) |
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また、あの佐藤氏がやってくれた。この絵本は面白い。これは『オリーブ』という女性雑誌(ってそんなのがあるなんて知らなかったけど)に連載されていた、哲学系(?)コラム的ほとんど1コママンガなのだ。小難しいとは一言も言わずに、読んだ人間に何かを少し考えさせる。この「ちょっとだけ深く考えてみる」というのが彼の言う「プチ哲学」なのだ。
この本の中でウマイなぁと思ったのがこれ。
「プッチンプリンの法則」
- 急いでいるときにエレベーターを使うなら、最後に乗れと佐藤氏は言う。なぜなら、ドアが開いたら真っ先に降りることができるからだ。最終的な結果がどうであるかを想定してそこから逆算すれば、最初にとるべき行動が決まってくるということ。これは、プッチンプリンで容器には最初にカラメルを入れるのと一緒なのだ!
2000/06/12 『公共性』 (齋藤純一;シリーズ 思考のフロンティア;岩波書店) |
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政治がうまく行っており、社会がうまく機能している間は、公共性云々ということは問題にはならないのだろう。しかし、おそらく今の日本の多くの人が日本の未来ではなく、現在の社会に対する不安−場合によっては恐怖−を抱いているのではないだろうか。重なる不祥事、理解不可能な事件等を通して、この国の何かが壊れてしまったという感覚をもっているのではないだろうか。(この意味でも、『失われた10年を問う』であった、「生まれなおすとしても今の時代が良い」と言う結果は興味深い。)
私が思うに、壊れたのは共同体(community)なのではないか。共同体とは、ある種の価値観・文化を共有する集団のこと。等質な価値を共有することによって成立する。その価値観に準拠する限りにおいては秩序は保たれ居心地の良い生活を送ることができる。しかし、共通の価値観を前提とするあまり、そこからの逸脱する分子を排除してしまう危険性をはらんでいる。
これに対し公共性というのは、個々の価値観が異なることを前提として、それをどのように並立させ、共存させて行くかを模索する姿勢である。(「姿勢」であって、実体のあるものではない。)
明確に定義されたものではないにせよ、なんとなく、「日本らしさ」と思ってきていたものが日本人の間ですら共有されなくなった。昨今の新保守主義的な動きはこの崩壊を国(家)への帰属と言う観点でまとめなおそうとするものであり、グローバル・スタンダード云々という流れは、これとは逆にどこにも居やしない「世界市民」への昇華を図ろうとするものだと言える。
個人的には、そのどちらも偏っているように感じてならない。
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JMM(Japan Mail Media)と言うのは、作家の村上龍氏が既存のメディアが、現代日本の抱える不安に真っ向から答えていないとの問題意識から始めたメールマガジン。村上氏が経済の専門家(実務者、と言うべきか)にメールで質問する形式で問題点を明らかにして行くタイプのメールマガジンである。この『失われた10年を問う』はその特別版(を本にしたもの)だ。
最近よく耳にする「失われた10年」とは何なのか。失われたものは何なのかに迫ろうとしている。
さて、通常、「失われた10年」と言えばバブルが崩壊して以降の日本経済がにっちもさっちもいかなくなった1990年代のことを指すことが多いが、この本では、「失われた」のは1980年代の10年間ではないのかという論点が繰り返し出てくる。80年代と言えば、日本経済が無敵だった時代だ。本当に変化が必要だったのは今この時期ではなく、80年代もしくは70年代後半なのではなかったか、という指摘である。まあ、確かにそうなのだが、それは今の時期だから言えることで、仮に真実だとしても、いまさらどうしようもない。
そして、どうしてそうなったのかという点に関して、「無知」だったから、と言う。この「無知」にはinnocentの意味も込められている。ウブだったということだ。日本が戦後、ウブなままイケイケドンドンで来てしまって、ここまで世界が厳しいとは知らないまま昇り詰めてしまった、と。
う〜ん、そうすると、対処の方法は、お勉強すること、なのだが、そのために高い授業料を今払ってるってことなのかな。
さて、読んでいて面白いなと思ったのが、読者に対して「生き直すことが出来るとしたらいつの時代がいいか?」という質問を投げかけた結果、「現代」と答えた人が圧倒的に多かったという事実だ。そう、ほとんどの人が、今を悪い時代だと思っていないのだ。「昔はよかった」なんて人はごく少数だったのだ。今の日本がどんなに問題を抱えていようとも、凡百の評論家が「昔の日本には○○があり、それがよかったのだ」などというのは、嘘っぱちだということだ。少なくとも(インターネットを使える人というバイアスがかかった中での)一般ピープルは、昔に戻りたいなんて思ってない。じゃあ、大きな問題が残ってしまう。
本当に何かが失われたの?
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5月22日分のContemporary Files・「神の国」で
仮に森首相が民俗学を猛勉強してて、日本の歴史における、庶民の生活と神の関わりなんかに通暁してて、いかに八百万(やおよろず)の神が生活と密着していたかなんて路線で話をしたのなら面白かっただろうな。この点ではなかなか否定しにくい。正月にはかなりの数の日本人が初詣に行くし、受験シーズンには合格祈願のお守りを買うし、子どもが出来たら戌の日に腹帯をもらいに行ったり、生まれたら初参りとかしてるじゃない。(僕は行かないけどね。)
って書いておいた。そしたら、このことをまともに書いている文章を見つけたので思わず買って読んでしまった。著者の加地氏は大阪大学の名誉教授で、孔孟思想などの研究で有名な先生である。
まず加地氏は、森首相の言う「神の国」は「神々の国」「神々の国原」と言う意味であるとしている。
日本では誰もが死ねば「神」になる可能性があるような国であり、もともと多神教的な宗教風土を持っている、と指摘している。
さて、後者に関しては私は異論はない。仮に森首相その意味で発言したのなら、非難するほうが勉強不足・歴史認識不足だと言えた。しかし、森首相はその点を踏まえて本来「神々の国原」とか言うべきところを「神の国」と言った−つまり認識はしているのだが表現を間違えた−のではなく、非常に素朴な昭和初期の国家観の雰囲気に基づいて発言したとしか思えないのだ。
まあ、批判するほうも批判するほうで、ほとんど条件反射的に「天皇中心」「神の国」という言葉−概念じゃなくって−に噛み付いていて、日本が本来どういう国であったのか・あるべきなのかという観点の切りこみ方ができていない。もし私が森首相を擁護せねばならない立場に立たされたなら、その点を攻めるだろう。この『日本は「神の国」である』は森首相擁護的な立場で書かれているのだが、哀しいかな、森首相はそこまで考えてモノ言ってないよ、って気がするのであった。