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Title : Affirm yourself
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肯定せよ、という声が聞こえ
...Trotzdem Ja zum Leben sagen

 第2次世界大戦中、多くのユダヤ人が捕らえられ、収容所へと連行されていった。収容所の中では多くの人が無気力になっていったと言う。(→ Bookshelf : 『夜と霧』
 我慢というのは期限がわかっていないと持続しない。「春になるまで待てば・・・」とわかっていれば何とか待てても、いつ出られるか、いや、出られるのかどうかすらわからない状況ではしかたのないことなのかも知れない。
 しかしそんな極限状況の中でも人間性を失わなかった人たちがいた。その人たちはいかなる事態に遭遇しても希望を失わなかった人たちであったと言う。

 アウシュビッツに送られた人は95%はそのまま「ガス室」行きだった。生きて外に出てきた中にノーベル文学賞授賞者のV.E.フランクルがいる。彼はその収容所の体験をもとに様々な本を書いた。その1冊の中で次のように書いている。

人間はあらゆることにもかかわらず−困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命のもとにあったとしても−人生にイエスと言うことができるのです。

(V.E.フランクル 『それでも人生にイエスと言う』)

 たとえ目の前の状況がどんなに悲惨であっても、いや、悲惨であるからこそ、いったん、それを受け止める。
 「それでも人生にイエスという」のだ。

 この「人生にイエスと言う」という表現は、タイトルにあるように >>Ja zum Leben sagen << である。ドイツ語の基本を学んだ方なら、この「イエスと言う」主語が何であるか想像がつくだろう。>> sagen(言う)<< は規則動詞だ。活用形が >> sagen << となるのは「私たち(wir)」か「あなたたち(Sie)」だ。が、後者は文章の意味としておかしい。であるならば、「(私たちは)人生にイエスと言う」という文章なのだ。フランクルが自分自身の決意としてい言っているだけなのなら、 >> sagen << ではなく >> sage << となっているはずだから。ほかでもない、この「私」も(ということはこれを読んでいるあなたも)『それでも人生にイエスと言う』ことができるとフランクルは言う。いかなる悲惨な状況であっても、希望を持ちつづけることこそが人間を人間たらしめる最後の一線なのに違いないのだ。

不条理。

 世界は不条理である。

 しかし、不条理であることは世界を否定する理由にはならない。正確に言えば、不条理の故に世界を否定したとしても、世界は依然、不条理であり続ける。その不条理に耐える方法を、人間は未だ知らない。そういう不条理な世界に生まれてしまったことを受け止めきれないままでいる。

影をうまぬ太陽はないし、夜を知らねばならぬ。
不条理な人間は『よろしい』と言う。彼の努力は終わることがないであろう。
人にはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた運命などありはしない。

 そう、肯定するのだ。

 肯定−と言っても、目の前の状況を価値あるものと無条件にみなす、という意味ではない。
 まずはいったん、事実は事実として受け止め、受容し、そこから出発することを考える、ということだ。

 「業」もしくは「宿業」という言葉は、これを説明した概念なのではないか。
 逃れ得ぬ(往々にして悲惨な)状況という理解をされることが多い言葉であるが、サンスクリット語 karman の基本的な意味は「為すこと」「為すもの」「為す力」のことである。(←岩波 仏教辞典)

 自分を取り巻く一切の環境は自分の過去の一切の営為の蓄積の結果であり、それを乗り越えるために受容する、ということ。

 肯定せよ、という声が聞こえるのは、天からではない。自分の内部からだ。


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Updated : 1999/05/31