Location : Home > Humanisphere > Eyes
Title : Torn life apart
Site:Felix Logo
「引き裂かれた生命」

 以下に書くことは、大阪府立大学の森岡正博教授の生命学のページ「引き裂かれた生命」及び「無痛文明論」を読んで、頭の中をよぎったことである。ひょっとしたら森岡氏の主張を誤解しているのかも知れないし、全く的外れのことを言っているのかも知れないので、森岡氏の主張を要約している部分については、できれば原典をあたってほしい。

「救済」という傲慢な行為

 まず、数年前に書いた2つの文章を掲げておく。

救う/助ける/守る

 人間以上の人間は存在しません。ある特定の人間を人間以上の存在に見せようとする仕組み・組織・思いこみはすべて誤りであると言えるでしょう。この意味で“神”は存在しません。すべきではない、と書くべきかもしれませんが。“神”が存在しない以上、“神の代理行為”も許されません。つまり、「天に代わって、○○」なんて言うものや確信犯としての犠牲の強制・黙認も許されるべきではありません。他人の生殺与奪の権利を誰も持ち得ないのです。
 反語的に聞こえるかも知れませんが、救う/救われるの関係はもはや神/人間の関係に同型であると言えます。それは救われる側の人間が無力であることが前提となるからです。

 人は人を救うことはできません。ただ助けるだけです。

 人間に必要なのは自分で立ち上がる力です。正確には、既に全ての人間がそれを持っていながらその存在を十分に活かすことが出来ないでいると言えます。自分の中にある、その力を自覚し、そして他人に対してもその力に気付かせ、引き出してあげることができる人が尊い人だと言えるのでは?

(Date : 1995/05/15)

人を幸福にする力

 自由とは全てのものに拘束されないことではなく、束縛が問題にならないこと−積極的に解決していくことに−あるのではないかと思う。
 <守るべきもの>を持たないことは、確かに行動の「自由」をもたらすけれど行動の動機をも持たないことになるのでは?
 <守るべきもの>を持つことによって責任が発生する。深い責任感は智慧をもたらす。けれども「守る」ことが単なる守旧に終わったときは行動に自由は奪われる。<守る>とは過去の遺物の温存を意味するのではなく、現在に活かすことであり、未来に息づかせることでもある。
 では、人を幸福にするとは、その相手を<守る>ことなんだろうか?
 様々な害悪から遠ざけるだけのこと?
 それとも、たとえそう言う目に遭っても立ち直る力を付けてあげること?
 私はその答は後者だと思ってる。
 <守りたい人>に24時間ついて回ることなんてできないんだし、もしそんなことが可能だとしても、そうすることでその人は自分に依存してしまって、もはや自分がいなくなることで相手を不幸にしてしまうという本末転倒した事態になるだけだと思うから。

(Date : 1995/5/23)

 これらを書いた時期以前から、ぼんやりと、「救済」という言葉に違和感をもっていた。

 例えば飢えた人が目の前にいるとしよう。
 その人にパンを与えることが救うことなのか?
 当座はそうかも知れない。でも、根本的には「救い」にはなっていない。パンを与える人がいなくなれば生きて行けないしくみを固定化させちゃいけない。自分でパンを手にできるようにお膳立てすることが必要なんだと思う。自分がいなくなっても生活していけるしくみを準備しないかぎり、その人はずっと誰かに頼りつづけることになる。援助する側は、相手をどこかで突き放して、その場を去らなきゃいけない。そうでなければその地に骨を埋めることだ。

 援助は始めるのは簡単だけれども、終わらせるのは難しい。

 森岡氏は「引き裂かれた生命」(8)の中でパターナリズムの問題に触れ、これは生命のもつ本性のうちの1つ、「ささえの本性」が極端な形で現れ、「愛という名の支配」になる危険性を指摘している。

 おそらく、「救済」という言葉には、“私は「救う力を持った人」であり、「救われるべき人」のために働いてやるのだ”という意識の匂いが−もちろん、当の本人は善意の固まりであることが多いが−感じられるから、違和感を持っていたのだろうと思う。

 百歩譲って、「救済」という言葉を使うとしても、それは対象に深く関わり続けることではないのではないか。どこかで「冷酷に」見放す、突き放すことが必要なのではないか。

教師の存在理由

 教師とはなんでしょう?

 人に何かを教える存在だと普通は思われています。図示すると下のようになるでしょう。

知 → 教師 → 民衆

 このように中間媒体として存在すべきなのは、民衆が本当に何も知らない時。

 純粋に知識の伝授が課題である時には有効であるし、対象となる民衆の頭脳が全くの白紙である場合は、これ以外に方法がないのかも知れません。例えば小学生に九九を教えるとき。または初めてプログラム言語を教える時。 そう、教育の「教」の段階。

 しかし本来は

知−−→ 民衆

教師

なのではないでしょうか?
 つまり、民衆が知に直接触れるように方向を指し示し、なにか民衆が困った時にすこしアドバイスをする。決して替わりにやってあげることではない。例えばわからない言葉に出くわして質問してきた相手に対して、意味を答えるのではなく調べ方を示すようなもの。例えばプログラムのバグを見つけ、修正する感覚。これは教育の「育」の段階。

 正確に言えば、民衆と知とを対置すべきではないでしょう。
 民衆一人一人にこそ知が内在することに気付かせること、これが最も重要なこと。
 この意味で教師とは民衆に知が宿ることを知り、そのこと教えていく者と言えます。だから、いったん民衆が内在する知に気付いたならば、次の教師となって新たな教育へと向かうことができるはずです。すなわち、教師の存在意義は、教師の存在が不要になった時に完結します。逆に言えば、教師はその働きを全うするには姿を消さねばならないのです。

 『カモメのジョナサン』(R.バック)の最後の場面で、ジョナサンは弟子のフレッチャーにこう言います。

もうきみにはわたしは必要ないんだよ。きみに必要なのは、毎日すこしずつ、自分が真の、無限なるフレッチャーであると発見しつづけることなのだ。そのフレッチャーがきみの教師だ。きみに必 要なのは、その師の言葉を理解し、その命ずるところを行うことなのだ。
(Date : 1995/02/17)
人が死んでいくのは

 先の「教師の存在理由」を書いた後の思索で、人間はなぜ死ぬのかという問題に、暫定的なしかしかなり魅力的な回答にたどり着いた。

 人は、遺された人を勇気づけるために死んでいくのではないか?

 人が生物として死んでいく理由ならいくらでも挙げられる。
 しかし、それは死を受容する「回答」にはならない。拒否しても、生きているうちには他人の、または近親者の、そして最後(最期)には自分の死に直面するわけだ。

 しかし、こう考えてみてはどうだろう−自分の「かけがえ」に自分が占めていた「場所」を明け渡すことで、自分の最終的な「役割」を全うする、と。「私がいなくても、あなたたちだけでやっていけるよ。大丈夫だよ。」と励ますために去っていくのだ、と。


肯定せよ、という声が聞こえ : PreviousNext : 「思想」と「思考」
Site:Felix Logo
Updated : 1999/05/31