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Title : Thought and Thinking
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「思想」と「思考」

 今年の5月に、「ハーグ平和アピール」が発表された。以前から興味を持っていたのだが、結果はあまり日本では報道されていない。しかたがないので Web Page にアクセスしたら、少しまで Working Draft (検討用の草稿)であったものから、The Hague Agenda for Peace and Justice for the 21st Century (Conference Edition)となっていた。
 未だ Working Draft と Conference Editon とをじっくり見比べていないのでどこにどういう変化があるのかよくわかっていないが。。。

 今のところハーグアピール日本支部のページには日本語訳が掲載されていないので、いっちょ訳してみるか、、、と思い、ほんのすこし着手したが、言い知れぬ違和感がもってしまった。

 ふと、「訳すことに意味があるのか?」なんて思たのだ。

 何のために訳すのか? ということである。
 アピール自体は平易な英語で書かれており、おそらく中学程度の文法知識で十分読解可能である。それでも敢えて日本語にする意味は何だろうか? ということである。

 アピールを作成することと、アピールしたことを実現することとは雲泥の差があるはずだ。

 もちろん、この平和アピールの作成のために世界中の数多くの人が頭を絞り、力を合わせてきたと思うし、その努力は素直に讃嘆したい。しかし作成そのものがゴールではないはずだ。
 また、アピールの存在を知り、またそのアピールへ協力した人たちの間どうしでは、もはやアピールの内容など不要なのであろう。問題は、その存在も知らず、アピールで謳われている内容に反する行動をとっている人たちに遵守させるようにすることのはずである。

 こういう言い方をすると傲慢に思われるかも知れないが、ハーグ平和アピールはこの部分が欠落(!)しているような気がする。

 理念としてやるべき事(アジェンダ)は示される。では、そこへどのようにして至るのか。誰がどのようにそれに参画するか。それが明確にされていないままなんじゃないか。
 世界は問題(地球的問題群)に満ちている。その認識は正しい。それを解決すべきだ、と指摘すること自体も正しい。ハーグ平和アピールではそれを列挙するに止まっている。(と私は理解してる、ということだが。。。)

 理想と現状との間を埋める作業が必要なんじゃないかと感じているわけだ。
 問題群を解きほぐし、構造を明らかにして、どこからどのように手を付けるべきかを探ること、次にやるべき作業はこっちじゃないのか、という気がするのだ。

 この手の問題はあちこちで見かける。
 たとえば、平和研究は平和の研究が目的ではない。平和をもたらすことが最終的な目的でなければならない。
 歴史学もそうだ。歴史学者の学説を学んだり紹介したりすることが歴史学ではない。歴史の構造・流れを明らかにすることだ。
 哲学することと、哲学を学ぶことも違う。誰かによって考えられたもの=thought(=思想)を学ぶことと、思考すること(=thinking)とはかなり違う。

 以前、Bookshelfの『自分と向き合う「知」の方法』

「そやから、どないせぃっちゅうねん。」
「そういうおまえはどうやねん。」
の2つの質問に答えられない言説は、所詮は空虚なものなのだろうと思う昨今である。

と書いた。(→原文参照)
 さて、この部分を書く背景はこういうものである。

 世の中に流通している言説が、どうも自分のなかにしっくりと入ってこない、説得力を持たないのはなぜだろうか? という感覚がある。
 言っていることは正しくて美しくて賛成するしかないのに、じゃあ、やろう!と腰を上げるまでにいかないのはなぜだろう、ということだ。このように、正論なのに誰もそれを守ろうとせず、守らないことをうやむやにするような問題の構造を、『生命学への招待』(森岡正博;勁草書房)では「姥捨山問題」と言っている。

 その言説の実行可能性(または実効性)が見えない−これが「そやから、どないせぃっちゅうねん。」にあたる−か、その言説をした当の本人が、自分が決して当事者になることのない「安全地帯」からの視点や発言になっており、当事者に「そら、あんたはえぇわな、関係ないもんな」と言われかねないという感覚−こちらは「そういうおまえはどうやねん。」にあたる−を持ったからではないか、ということだ。

 ハーグアジェンダを訳すこと自体は無駄なことではない。
 平和を訴えること自体は誰も反対しないだろう。だからと言って、「君たちはこういう文書の存在を知らないだろう、だから私が訳して提供してやるのだ。」というような「高み」に立ってはいけない。なにしろ、日本語で提供するということは、どんなにがんばってみても日本語を読むことのできる高々1億人強までの影響力しかもたないのだ。日本語の理解能力のある人たちだけで平和が構築できるわけがない。

 誰かによって考えられたものを第3者にわたすことで自分の価値を見出しているようではだめなのだ。自分の問題として受け止め、自分のちっぽけな頭で考えることが必要なことなのではないか。


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Updated : 1999/06/06