Location : Home > BookShelf > 1999 Bookshelf #012 : Method for wisdom to front myself |
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「同苦」という言葉がある。
けれども、同苦は可能なのか?
「当事者でない者が、自分の問題であると受けとって振る舞うことは果たしてよいことなのか? そもそも可能なのか?」と言い換えた方が正確だろうか。
「頭」から入った運動(=生活や現実の裏付けのない運動)は、現実を背負った人々と乖離し、第3者からも相手されなくなる。
共産主義運動って学生とかが頑張ったけど、ホントはプロレタリアートが「当事者」じゃなかったっけ?
それは「偽善」だの「イデオロギー」だのを感じてしまうから。
もう一つ。同苦したところで、それだけでは現実は変わらない。
つまり、単なるロマン主義は、現実の矛盾点を厳しく指摘はできるけれども解決策を示さないために、結局ずるずると現状を維持してしまう危険性をはらんでいる。しかもロマン主義にひたっていると、自分は頑張っているんだという意識があるから、その問題を指摘すると「反動」あつかい。
例えば、コソボ空爆反対の署名を、日本で集めても、NATO指導部は痛くもかゆくもないだろう。コソボの民衆への激励のメッセージをいくら日本語で集めても、それだけでは届くのは気持ちだけで、そのメッセージそのものは伝わらない。
ネット上でそういう取り組みをされている方は数人知っているし、その動機が純粋なのがわかるのでそういうことを指摘することがはばかられたりする。
その手の活動のやり取りの中で「指揮を執るボランティアの方が必要だ」という発言があって、やや違和感を持ったりもした。この発言をされた方は純粋にそう思っておられるのが他の発言からも見て取れる。でも、「誰かがやってくれれば」であって、「では私がやります」とは読めない。。。。(「誰が猫に鈴をつけるか」問題)
前置きが長くなってしまった。
この本はようするに上のようなことを考えさせられる本だ。
私たちが大学で学んできたものは,要するに,自分のことを棚上げにしたままで,社会や世界について考えるための、「知の方法」だった。
(中略)
ひとりひとりが、自分のことを棚上げせずに、そして自分にとって都合の悪いことからも目をそらさずに、どこまで自己と世界を見つめ続け、考え続けられるのか、それが問われている。
「そやから、どないせぃっちゅうねん。」
「そういうおまえはどうやねん。」
の2つの質問に答えられない言説は、所詮は空虚なものなのだろうと思う昨今である。
(→若干の補足)
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Updated : 1999/05/09
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