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Title : "Lives are equally unworthy."
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「命は平等に価値がない」
かけがえのある命

”第一の要求は命の重さっ!!
ついでに値段も聞かせてや!!
  (中略)
第二の要求っ!!
国が公式発表せいや!!
人が人を殺したらあかん理由……
法以外にあるなら 戦争含めて答えてくれるか。
ただし!! 神さん仏さん持ち出すのはなしやで!!
最後!!
第三の…………要求。
世に棲生きとし生けるものすべてが、自由に、平等に、美しく明るく楽しく暮らせる、幸福と善意と優しさと愛に満ちた……世界を……要求する!!”

 『The World Is Mine』というマンガをご存じだろうか。
 週刊ヤングサンデーで連載中の新井英樹の作品である。この中で主人公(?)の一人の爆弾マニアが警察署襲撃の際に要求する事項が上の引用部分だ。
 主人公は手製のプラスチック爆弾でかなりの人間を殺しており、一旦は逮捕されるが、もう一人が彼を奪還しにロケット砲・自動小銃などで襲撃、警察署で立て籠る場面での「要求」の中味だ。

 さて、回答を要求された総理大臣・由利勘平(作品中では「ユリカン」と呼ばれている。以下、この愛すべき総理大臣をユリカンと呼ぶ。)はこれに対して次のように答える。

”第一の要求 人命の人種別国別による重さと値段?
回答!!
命には…ハナから価値はない。
無論 格差もある
重さも値段も他者との関係で築きあげなさい。
ただし補償額で言うなら現実的に一個人においても……そう 時価である。
第二の要求。
法律・宗教以外で戦争を含めた「殺人はいけない」という理由。
回答!!
理由は……ない!! あれば法律や宗教など必要ない!!
そして戦争は善悪を問わず、国家が認める殺人である!!
第三の要求 世に棲生きとし生けるものすべてが、自由に平等に美しく明るく楽しく暮らせる幸福と善意と優しさと愛に満ちた世界の要求。
情けない質問だ。
そんな…世界は永久にない!!”

 政治家としてこのように語るべきであるかという問題はさておき、ユリカンの言っていることは事実である。
 正面きって語られると唖然とし、反発をしてしまうが、事実である。公的な、道義的な説明ではなく、敢えて語られることのない「大人」の発言である。

 「一人の生命は地球より重い」という美しい言葉がある。しかしこれは事実ではない。「一人の生命は地球より重い」のであれば、一人の命を救うためには地球が滅んでもかわまない、ということである。事実はそうではない。「緊急避難」や「正当防衛」の名の許に、人間は、多数のために少数を犠牲にし、抹殺してきているではないか。
 「いや、これはそれほど大事だという譬えで。。」と言うのであれば、本当はそんなに大事に思ってもいないのに、 さも自分は大事に思っているかのように見せる偽善ではないのか。。。。

 最近、人が簡単に死んで…と言うか殺されて…いる。
 それを多くの人がワイドショーで見て「娯楽化」している、という現実。
 口でどう言おうと、それは人の死を楽しんでいるのではないのか。

 「自分は生きていてもしかたがないんじゃないか」と考えたことがある。
 それは、仮に自分はいなくても、それはそれで世の中は動いていくのだ、と気付いたとき。

 「かけがえのない命」なんていうが、実はそんなことはない。

 「かけがえのある」命とは何事だ! という声が聞こえてきそうなので説明しておこう。
 「かけがえのない」とは「代替が不可能」ということ。

 「会社の歯車になんかなりたくない」という新入社員をいじめるのにこういう殺し文句がある。

「歯車になれたらすごいもんだ。
 歯車は1つでもなくなったら機械は動かなくなるけど、
 社員は1人ぐらいいなくなっても会社はどぉーってことない。」

 実は世の中のどこにも、「かけがえのない人」なんていない。
 もしそんな人がいたら、定義の上から、その人がいなくなった時点で社会は全く機能しなくなるということだ。しかし、現実にはたとえ首相だの大統領が暗殺されたとしても、その国が瞬時になくなるわけでもない。ナザレのイエスが死のうと、ゴータマ=シッダルタが死のうと、それで世界が破滅したわけでもない。

 人は死ぬ。そして誰かがその後を埋めていく。親が死ぬ。子はそのとき初めて実質的に「親」になる。そして「親」になった子が死ぬ。そしてその子がさらに後を継ぐ。………そうやって人類は滅びることなく続いているんじゃないのか。

 この世に生きとし生けるもの全てが、先祖の屍を乗り越えて生きていく。そして自分の子孫の「養分」となるために死んでいく。
 個の生命が、それぞれの今世での役割を果たし、交代しながら命を継いでいく。それが生命の在り方ではないのか。つまり自分の「代替」を準備することで、自らの最終的な役割を果たす、と。

 …「かけがえのある」とはそういう意味。

 今の時代の問題の根源とは、「かけがえのない命」が理由もなく奪われるという事象そのものではなく、「かけがえがある」のにそうでないように思い込んで、「いや、かけがえがないはずだ」とあがきながらその回答が得られずにいることにあるのではないかと思う。
 かけがえがないと感じることができるのは、自分の身近な存在でしかない。せいぜい、自分の想像力が及ぶ範囲内のことでしかない。バルカン半島での悲劇より、うちのポチが死ぬほうが悲しい、というのが事実ではないのか?

ある反問

 ある人が反問する。

 一人の人間が全ての生命体に等しく接することが出来ない事を取り上げて、全ての生命体に平等の価値なんて、ない、と決めることはおかしくないでしょうか?

 Felix(いぢわる版)が言いたいのは、「一人の人間が全ての生命体に等しく接することが出来ないのに『全ての生命体に平等の価値がある』と言うのはなぜだ?」ということ。
 平等の価値があるなら平等に扱われるべきなのに、平等に扱われないということはどういうことだ? ということである。平等の価値がないか、本当はそんなこと思ってもいないのに口に出しているということになりはしませんか、ということだ。(いぢわる版;ここまで)

 また、Felix(かなり本心版)が思うには、生命があまりにも粗悪に扱われる現実をどう見るか、どう対処するのかと考えたときに、正論を振りかざすだけでは効果がないんじゃないのか、ということもある。平等に価値があるのにそれを多くの人が知らないからだということであれば、価値を知れば問題は解決するということになる。ではそのための努力は今までなされて来なかったのか、というとそんなことはないはずだ。

 「命は平等に価値がない」というタイトル自体は引用なのだが、これを採用したときに頭にあったのは無差別殺人を可能にするものである。(『The World is Mine』では高性能プラスチック爆弾。)
 核兵器でもサリンでもなんでもいいが、どこのどういう人であれ、たまたまその時その場所にいたというただそれだけで殺される危険を持つ時代−これはいったい何なのか?

 これが「生命には価値があるということを知らないから」ですむようなこととは思えない。もっともっと人間の本能に近いレベルでのどろどろした欲望がからむ問題なのではないのかと思う。

 事故現場や火事現場にたかる野次馬。
 災害現場や何かの被害者にマイクを突きつけるリポーター。
 その光景をワイドショーで平気で眺めている視聴者。

 いったい、「生命には価値がある」ということを知っているのは誰か?
 いや、逆だ。
 知らない者がいない(と思われる)のに、そういう事態になるのはなぜか?

 多くの人が本心では生命に平等に価値があるなどとは思ってなさそうな行動をとるのであれば、口でどう言おうと、価値がないと思っているとみなして扱わざるを得ないんじゃないか、そういう事実をいったん事実として受け止め、そのニヒリズムの地平をぶち壊す論理を構築しなくちゃならないんじゃないかと思う。(かなり本心版;ここまで)

 さて、ここからは本心版のFelixの見解ですが。
 「命はかけがえがない」と言っても、それは自分のかかわりのある範囲内でのことでしかない。そして「かけがえのない」相手ともやはりいつかは別れねばならない。それでも人は生きていく。
 ひょっとしたら次の瞬間、交通事故に遭ってしまうかも知れない。狂信的な集団の思いつきの巻添えを食らうかも知れない。近隣の国のミサイルが突然頭の上に落ちてくるかも知れない。それでも人は生きていく。
 この「それでも」をもたらすものが何であるのか、明らかにできないだろうかということ。ひょっとしたら昨日までの惰性なのかも知れない。でもこの「それでも」が徹底したニヒリズムをぶちやぶる契機になっているはずだ。


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Updated : 1998/11/01