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Contemporary Files #19990404
「命令によって人間を大量に殺す義務から独立せよ…」
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 冷戦が集結して、果たして「歴史は終わった」のであろうか?
 民主主義が「勝利した」のであろうか?
・・・この問いに自身をもってYesと答えることのできる人はいないであろう。もし民主主義が勝利したのであれば、現在の世界のこの混沌は何であるのか?
 冷戦の集結によって人々は規範を失った。替わりの規範が必要なのだ。人は安心を与える「世界観」を必要とするのだ。(たとえそれが「間違った」ものであろうとも!)

 人はいかなるときに「野蛮」になるのか?
 自暴自棄になったとき、ではない。自分が何であるかを強烈に意識したときなのだ。そしてそれにはそぐわないもの、敵対するものを駆逐することで自分の属する世界を「浄化」する。
 まず、自分が属する共同体が「善きもの」であると確信していること。そしてそれ故に「原罪」(=もともと逃れ難い罪を背負っているという意識)を持たないこと。そしてここから「純粋無垢性」が帰結される。このことと、現実の世界の混沌とを重ね合せて考えたとき、次の問いが発せられる。

 「悪はどこからきたのか?」

 もちろん、それは「私たち」に起源をもたない。ではその悪をもたらす相手(敵)を駆除せねばならない。「浄化」することが「わたしたち」の使命なのだーそういう発想を導くことになる。
 これはいわゆる原理主義のことを差していると受け取られがちだが、フランス革命もロシア革命も、ピューリタン革命も、紅衛兵の時代も、ポルポトの時代も、実はすべてこの論理で動いていたのではなかったか?
 遠い異国の昔の話ではない。日本でもこのような回帰現象は随所で見ることができる。

 この「危険な純粋さ」に対抗するにはどうすればよいのか?
 「純粋さ」をもたないことではない。徹底した純粋化と不断に戦い続けることが要求されるのだが、その「戦い」とは決して容易なものではない。

 ある1つの考え方を基準に、それに従う者たちを「仲間」とみなし、それを純粋に守っていくこと、およびその共同体(またはそれを成立させている原理)を脅かす存在を駆除し「浄化する」運動は、イスラム原理主義に限った行動ではない。
 そもそも「イスラム原理主義」が問題になるのも、西欧的な発想・文化による世界支配−と言って悪ければ、世界中を覆ってしまう状況−に対抗するためではなかったろうか。冷戦の終結によってそれまで抑えられてきたこのような動きが一挙に白日のものになった。いわゆる「民族問題」もこの流れの中の運動であるとみなしてよいと思う。

 要するに人はどこかに帰属したいのだ。帰属していると感じていたいのだ。
 しかし目前に迫ってくる状況が自分の望むものと違った場合、暴力を用いてでもそれを排除してしまう。いや、悪いことにその排除の過程で共に「闘う」人々との連帯感を強め、帰属意識を高める。それだけではなく排除すべき対象への憎悪も深まってしまう。

 人間は、自分がある集団に生まれついたという偶然をどう引き受けたらいいのかに迷い続けている。それに宗教的に解決を与えようとすると選民思想になり、国家が政治的に解決を与えようとするとナショナリズム(もう少し過激になればエスノセントリズム)になる。
 恐ろしいのは、この「解決」が「普通の人」を残虐な行為に引きずり込み、しかも罪悪感をもたない−時には誇りに思う−ことである。

 かわぐちかいじ作の劇画『沈黙の艦隊』の最終局面でこういう台詞がある。

「命令によって人間を大量に殺す義務から独立せよ…」

 私はこの台詞をかなりの切実感をもって読んだ。
 それが神であれ、国家であれ、組織であれ、1人の人間が”人間を超えるもの”の存在を感じ、その命令に従うという行動から解放されない限り、人類は「原理主義」から逃れられないのだ。
 これがあるうちは、神のため、国家のため、組織のため、人は人を殺すであろう。ただただ命令に従うことで。


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Updated : 1999/04/04