Location : Home > Humanisphere > Eyes
Title : Politics of Reconcliation
Site:Felix Logo
和解の政治学

 『現代思想』2000年11月号の特集は「和解の政治学」である。

 20世紀が押し詰まってきた近年、世界各地で Reconcliation の動きが高まっている。今年で言えば挑戦半島での南北対話がそうであるし、オリンピックでも取り上げられたオーストラリアでの白人とアボリジニーの Reconcliation もそうである。
 これらの動きの規範となっているのは、南アフリカ共和国でのアパルトヘイトに対する動きであると言う指摘が為されている。この問題についてマンデラ前大統領は、「許そう、しかし忘れてはならない。」という趣旨の発言をした(1999年2月25日、南アフリカ議会で)。

 これは以前、Contemporary Files「許す側と許される側の論理」で触れた内容だが、もし、この世の残虐行為の全てが、どれほど「懺悔」しても許されないものであるのだとしたら、誰がいつ、どのような立場で許しを乞おうと、絶対に許されてはならない。未来永劫、加害者の係累は被害者の係累に謝罪し、許しを請いつづけなければならない。逆に、被害者の係累は、加害者の係累に、その責任を問いつづけなければならない。相手や時代性によって、(被害者に関する)人間の尊厳に差がないと認めるならばそうでなければならない。それを、マンデラは「許そう、しかし忘れてはならない。」と言う。

 この発言を受けて、E.モランは「犠牲者には、自分を苦しめた者以上に、賢明かつ人道的であらねばならないという義務があります」と言う。「復讐と憎しみの論理から逃れるために、あらゆる手を尽くしてみることです」と言う。そしてそれは(相手のことに関する)「理解」から始まると説く。「無理解に抵抗すること」「私達自身の内での悪の蔓延に屈しないこと」だと強調する。
 そう、どこかで、「殺されたから殺す」「殺されそうだから殺す」という憎悪の輪廻を断ち切らない限り悲劇は繰り返すのだ。まず「殺す心」を殺さねばならない。

 モランは最後にこのようにまとめている。

倫理とは、私にとって、世界の残酷さに抵抗すること、つまり、生の、社会の、そして、人間という存在の残酷さに抵抗することなのですが、それは理解や寛大さや人徳なしには成り立ち得ないのです。


奇跡なんて起こらない : PreviousNext : 泣いたことがない罪
Site:Felix Logo
Updated : 2000/11/06