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Title : How can we defend?
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Contemporary Files #20030311
武器なき民衆の抵抗
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 巷はイラク問題で喧しい。で、おそらく、日本人の反応は大きく3つに分かれていて、1つは「フセインはどうもしゃないヤツやから、痛い目にあわさなあかん」と思っている一群(はっきり言ってうちの親父はここに属する)、ちょっぴり朝鮮半島情勢が気になって、もしここでイラクに何も起こらずフセイン政権が生き残ると、DPRK(北朝鮮)が大量破壊兵器を抱えて暴走してしまったときにそれを食い止める理由がなくなるから強硬な態度で臨むべきだと思ってる一群(たぶん「国益」を最優先して考えたらこれになる)、そして「戦争反対!」という姿勢をとっている一群だ。で、私の立場を正直に表明すると、心情的には最後の立場だが、それでは今後の世界情勢を「平穏」にしておく(それが「平和」かは微妙だが)ための方便をひとつ捨てることを意味するので、涙を呑んで2つ目の立場かな、というあたりだ。
 「戦争反対!」という立場を誰も非難することはできないし、そう唱えることは絶対と言っていいほど間違いではない。問題は、そう言った後だ。日本にはいろんな問題があるけれども、その中のかなり根本的な問題のひとつに、根本的に問題を考えないことが挙げられると思う。もし他者が暴力を振るうこと(ここでは他国が戦争に訴えること)を抑止したいなら、自身がそのような立場に立たされたときであっても暴力に訴えないという姿勢を貫かなければならない。ならば、そのようなときに何が必要で採りうる方法には何があるのかを徹底して考えておかねばならないのではないかと思う。残念なことに、戦争や暴力を否定する陣営からは、その方面の肯定的な(「反対!」と叫ぶだけから一歩踏み出て、「何をなすべきか」をきちんと検討した)方法論・運動論が出てきていない。ときおり私がぶちぶちと文句を垂れているのはその点なのだ。
 が、文句ばかり垂れてても事態は変わらないので、考えてみよう。
 今、この文章を読んでいる方で、「戦争反対!」という方は、私が以下に述べることよりも説得力かつ現実味のある方策を提示してほしい。もし以下で私が書くようなことを考えたことがなくて反対を唱えているのなら、それは単に美しい言葉に酔っているだけかも知れないと考え直してほしい。もちろん私の考えが正しいとは言わないが、戦争なら戦争を、平和なら平和を、徹底して考えた結果を、私のと比べてみたいのだ。それで相手のほうが説得力があるならそれに乗り換える。

 さて。普段から、問題が紛争とならないように積極的に紛争解決論(Conflict Resolution)を研究し、実践する仕組みが必要であることは言うまでもない。ガルトゥング博士ら、平和学の泰斗の提唱しているさまざまな枠組みがそこには適用可能だろう。日本が本気で平和を希求するなら、自衛隊よりも先に平和学の研究と実践が必要なのだ。個人が自分の思いつきだけで紛争地帯へ足を運んで何かをするという心情は理解できるが、行った先での何気ない行為が敵意を刺激することだってある。きちんとその地域の文化や伝統を学んだ上で、かつ紛争解決の技術も身につけて乗り込まないと誰も望まない結果を招くこともあるだろう。この問題に対する私の基本的な考え方は Contemporary Files #20020603・「守るべきもの(3)」あたりに記述している。

 スイスのように永世中立国にしたい、または日本をコスタリカのように非武装にしたい、という声を耳にする。理念としては美しいし、心情的には賛成したいところだ。が、それを唱える人たちから、その実現に向けた具体的な方策が聞かれないのも悲しい事実だ。先の2つの案は矛盾するのに、これを両方唱える人もいる。
 永世中立国になるとは、永久に戦時において中立にとどまる義務を負うことによって独立と領土の保全を確保することだ。その義務とは大きく分けて3つある。すなわち、1つめに交戦国への援助を慎む避止の義務、2つめに交戦国の一方に有害な行為を禁止する義務、特に中立国の独立を確保する義務、3つめに海上における封鎖などで没収されても甘受する黙認の義務がある。特に2つめの防止の義務は、交戦国の一方が中立国を占領または通過する場合には実力でこれを排除することを要求される。すなわち、中立を周囲の諸国に「守ってもらう」のではなく、実力で「守る」のだ。早い話、現在の中立法のもとでは、中立国は軍隊を−すくなくとも他国の軍隊を追い返すだけの武装は−持たねばならない。もし現行の国際法の枠組みのもとで日本が永世中立国を目指すのであれば、徹底して自衛隊の、「専守防衛」能力を高めればよい。そして今までいろんな国と結んでいる−特に合衆国だけど−条約で、何らかの条件で特定の国に有利な行動をとることを約束しているものをいくつか破棄しなければならないだろう。そしてスイスもオーストリアも、周辺の国から条約や宣言によって永世中立国であることを承認することで成立している。永世中立国という代物は、「私、今日からになります!」と宣言してなれるものではなくて、ご近所の皆さんが「いいよ」と言って初めて成立するもの。スイスやオーストリアが中立国になれたのは、その立地が大きな意味を持ったと思うのだが、日本の場合、幸か不幸かユーラシア大陸の沖にあるので、ここを通過して他国へ侵略に行くこともない。周辺諸国の同意が取れるかという大きな問題以前に、周囲の国が日本を中立国としてみなす「うまみ」というか、「この領域をどこかの国に抑えられたら厄介だ」という共通認識は生まれそうにないので、そもそも中立国とみなされないような気がする。

 さて、コスタリカのように非武装にしたいと決意した場合にやっかいなのは、現実の暴力に直面した場合である。
 もう一歩進めて、徹底して非暴力の姿勢を貫くのであれば、現在検討が進められている「有事法制」のようなものは一切認めてはならない。けれども、それならどうやって現実の暴力に対処するのか、という視点が、現在の反対派には決定的に欠けている。「そういうことが起こらないようにする」というのは正論だし、そうすべきなのだが、戦争やテロを起こす側や攻めて来る側には、そういうこっちの努力を受け入れてくれるとは限らない。一方的に攻撃や暴力を受ける場合も想定しておかねばならない。が、ここで、「他国が守ってくれる」という発想は非暴力に反するということに留意しなければならない。それでは単に「自分は暴力を振るわない」というだけで、問題の解決を他者にゆだねるという、非暴力の姿勢とは真っ向から矛盾する行為をとることになるからだ。非暴力を貫くなら、他者の暴力による救助は請うてはならない。
 現実的にとりうる手段としては、ユーゴ紛争において旧ユーゴスラビア・マケドニア共和国(FYROM;Former Yugoslav Republic of Macedonia)のグリゴロフ大統領(当時)がとった様に、国連平和維持軍の展開を要請するという手も可能ではあるだろうが、理念としての一貫性はなくなる。
もし非武装・非暴力を貫くのなら、現実の暴力が振るわれた場合は、それを受け止めなければならないだろう。侵略しにきたのなら、侵略されるしかない。ただし、その後の統治を非常に困難にするというのが基本的な戦略だ。というか、そういう方法しかとり得ないのだ。もしくは、多少の犠牲が生まれることを覚悟した上で、ガンジーの戦略にでることだ。

「わたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰することより雄々しいことを信じている。宥恕は武人を飾る。しかし、赦す側に罰する力のあるときにのみ、自己抑制は赦しとなる。無力なものが寛大を装ったところで、それは無意味である。」
(ガンジー 『わたしの非暴力』)

 その暴力を、侵略を、「赦す」のだ。「許す」のではない。「赦す」のだ。

「世界の残酷さに抵抗するということは、分離の中での結合を維持しようと試みること、自由なものを自由にさせておきながら結びつけようと試みること、許しを与えながら改悛を喚起しようと試みることでなければならない。」
(E.モラン 『E.モラン自伝』)

 暴力を振るう側の良心が突き動かされるまで「赦す」のだ。それが非暴力の戦術である。
 もし、「やられたらやりかえしてよい」なんて口走るのなら、合衆国の今の行為を責めることはできない。まさに、ブッシュ政権の言ってることそのままなのだから。

 世の人は、武器なき民衆の抵抗の具体的な方法を、どこまで思い描いて「平和」だの「戦争」だのを語っているのだろうか。

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Updated : 2003/03/11