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Title : No more heroes!
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Contemporary Files #20030224
英雄はもういらない。
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 これが今週の Contemporay な話題かって言われるとキツイんだけれどね。
 この週末、ちょっとわけあって、国連の高官の講演の一部を訳してた。「平和の文化の構築」っていうタイトルなんだけどね。読んでてとっても気になる箇所が出てきたので、翻訳の手を止めて考えてみたわけだ。

 講演の途中で、ウィリアム・ジェームス(合衆国の哲学者)が、戦争をなくすには戦争の道義的な等価物、すなわちすなわち戦争と同じくらい民衆が英雄的に感じるもの、しかし決して戦争ではなく、人間精神と両立できるものが必要だと言った、みたいな意味のことを言ってる箇所に直面したわけ。
 これ、ほかの人はどう受け止めているのかなぁ。
 たぶん、純粋な方は「なんてことを!」と激怒するのかもしれないなぁ。でも正直なところ、私は、そうだろうなぁと思う。こんな表現するとあちこちから何か言われそうなんだけど、人間の心の奥底には「戦争を待ち望む気持ち」ってのが蠢いているような気がする。「私にはそんなものありません!」と言う人、本当にそういう気持ちがない人もいるとは思うけど、世界全体60億人(より実際にはもっと多いんだろうけど)の何割かの人の心の中には確実に存在すると思う。「戦争を待ち望む気持ち」という言い回しが気に食わなければ「英雄を待ち望む気持ち」とでも言えばいいのだろうか。より正確に言えば、何か英雄的なものを持つもの(または人)への一体感を感じたいという大衆の心象の存在を否定できはしないと思うのだ。(だから、先の国連の高官の講演は、戦争の代替物として「平和の文化」がなるべきだという論を展開している、と私は理解してるんだけどな。違うかも。)

 …で、なんでこれが気になったかと言うとね。最近、靖国神社への公式参拝に関する非難をかわすために、無宗教の追悼施設を建設しようと言う動きがあるけれど、あれ、正直なところ、何だかなぁと思っているから。あ、もちろん、靖国があるんだから、それで十分じゃないかということを言いたいんじゃない。そもそも、国が死者の弔いに口も金も出すな、と言いたいんだ。日本という国が天皇という存在をその統治機構の一部として維持する限り、皇族において死者が出た場合に国葬とするのはわからないことはない。何しろ、皇族の方々は1個の人間としてではなく、統治上必要な(憲法上、存在が要請される)存在であるので、国が弔うことに矛盾はないような気がする。が、それ以外の個人の死を国は弔うべきではないのではないか。
 死者の弔いは、その人の死を悼む人(遺族とは限らない)が自発的に行えばいいのではないか。そこに組織だの、国家だのが介入すれば、それらの機構による、その人の死に対する意味づけが発生する。ある個人が「大事な人を失った」と語るのと、組織や機構の代表者がその機構の重要な構成員であった者の死に対し、「大事な人を失った」と語るのとでは、自ずから意味が異なる。その死者が生前に何かに取り組んでいた場合はなおさらだ。「彼(または彼女)は、○○に取り組み、それに殉じたのであります」なんて弔辞に読まれたりするだろう。

 誰かが何かに取り組んでいて、それに殉じていく姿を尊いと思う心情−これはおそらく否定できない。けれども、そこには「そのために死ぬ価値がある」対象があるということを認める心情も見え隠れしている。だから「殉じる」ことを美しいと感じるのだ。自分の死を、もしくは自分の大切な人の死を単なる生物学上の死ではなくて、そこに何らかの意味を見出したいと思いたいという心情、個々の人間を超える偉大な何ものか、大いなる「物語」の一部に加わりたいと言う心情−これは否定できないだろう。けれども、自分の属する集団(それは何かの組織かも知れないし、国家であるかも知れないが)からその死に対し意味づけする(顕彰する)という行為は、その心理をうまく使って、それを見ていた生者に忠誠の動機付けを強化することに役立つ。「自分の死にも意味があるのだ」と思うようになる。

“ヒトラーにいかなる懲罰を加えようと、彼が自分が偉大な人間で感じることを妨げることはできない。なかんずく、二十年後、五十年後、百年後、あるいは二百年後、ドイツ人であるなしを問わず、ある孤独な夢想家の少年が、ヒトラーは偉大なる人物であった、徹頭徹尾、偉大なる運命であったと考え、魂のいっさいをあげて、おなじような運命を願うことを妨げることはできない。そうなったら、その少年の同時代人は不幸なるかな。”
(『シモーヌ・ヴェーユ著作集5 根をもつこと』 春秋社)

 人々を殺す者であれ、その人物を殺す者であれ、戦争で大きな成果を示した者であれ、人々を戦争に駆り立てた人物を暗殺する者であれ、憎い者や圧制者たちにテロで抵抗する者であれ、彼らを英雄視し、歴史上の偶像に祭り上げてしまう心理がある限り、その偶像の模倣者を次々に生んでしまう危険が潜んでいる。これに対しヴェーユは、「偉大さの観念とその意味との全面的変革」が必要だと説いている。

“この変革に協力するにあたっては、まずもって、自己自身のなかでこの変革を成し遂げなくてはならない。われわれ各人は、偉大さに対する感情の向け方を変えることによって、いまの瞬間から、自己自身の魂の内部においてヒトラーの懲罰をはじめることができる。”
(『シモーヌ・ヴェーユ著作集5 根をもつこと』 春秋社)

 「英雄」を待望し、自己同化し、自分の行動を正当化する心理には抵抗しなけりゃならないと私は思ってるってわけだ。

 何かに「死ぬ気になってがんばる」のはいいとしても、本当にそのために死んでもいいというのとでは、格段に差がある。「そのために死ぬ価値がある」ものなんてあるのか、と自問してみてほしい。(いや、まあ、親が自分の子どもの命を守るため、というのはありかも。ただし、例外的に。)
 私は思うぞ。個々の生命を超えて、「そのために死ぬ価値がある」ものなんてないと。だから、ぎりぎりの状況で誰かの命を守るために命を投げ出すことはあるかもしれないけど、それ以外の死は、特に国家や組織のために死ぬなんてのは無意味だ。(しかし、「犬死に」という表現は、犬にも失礼だし、そう言われた人にも失礼だなぁ。ちょっとここは将来的に書き直すかもしれん。)
 その死に、特別な意味を見出そうとしてはならない。それは、その国家や組織の思う壺だ。死に、人間が与える意味での美しいも尊いもない。ただ、自然の摂理として峻厳なだけだ。

 …と、ここまで書いて、どうして、私が無宗教の追悼施設にすら反対するかなんとなくわかっていただけただろうか。無宗教だとしても、結局、国が国のために死んだ人を顕彰していることに変わりはない。無宗教ならいいなら、靖国を神社じゃなくて、共同墓地にしてしまえばいいんだ。問題の核心は宗旨が神道であるか無宗教であるかではなく、そういうことに国家が介入すること、なんだってば。

 国が「国家のために死ぬなんて無意味です」って表明するほうが、よっぽど反戦的なメッセージなんだけどな。(ただし、国家の存立を支えているものを思いっきり破壊もするけど。)
 あくまで死者を弔うのはその人の死を悼む人が自発的に行うべきだよ。(したがって、民衆が大勢あつまって金を出し合って無宗教の追悼施設を造るのには反対しない。)

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Updated : 2003/02/24