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Title : The peace never come. (3)
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Contemporary Files #20011126
「もはや“平和”は来ない」(3)
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 先々週書いたことに対し、BBSでUokuniさんが指摘されたように、“ビン・ラディン氏の主張は、『アメリカ(及びその取り巻きの国々)』が我々の行動を「テロ」と『定義付けるのであれば』、我々は「テロリスト」である、と言っただけであり、自分の行動を「テロである」と認めたということとは異なる”可能性は十分にある。
 しかし、私はどうも、定義をしようとする行為そのものになんとなく胡散臭さを感じ取ってしまうのだ。

巧妙な免罪符

 国連でもずっと問題になっていてついに決着がつかなかった「テロ」の定義について考えているのだが、やはりどうもまだしっくりしないままである。
 「テロ」を定義するとは、要するに、「こいつはみんなでいじめていいよ」っていう巧妙な免罪符の奪い合いなのかも知れない。
 「テロ」は「悪いこと」だとみんなが漠然と思っているんだけれども、それでは誰が「悪いやつ(ここでは『テロリスト』)」と定めることは、「自分はそうじゃない」という規定がそこには暗に含まれている。
 これまで、Bookshelfの『自分と向き合う「知」の方法』や、Eyesの『「思想」と「思考」』で触れてきたように物事を突き詰めて考える際には、常に「そう言うお前はどうやねん」という問いが必要なのだ。。例えば「タリバンは女性を抑圧してきた」と非難し得るためは、「私は女性を抑圧していないと言えるのか?」という自問にきちんと答えることができる者だけではないだろうか。

悪からの遡及法

 テロの定義がなぜうまくいかないかというと、言わば「悪」を定義するようなもので、どうしても自分(たち)がこれまで為してきた・為している・為そうとしている行為がそれに含まれないということ、自分の行為がテロでないと正当化することのほうに思考がむいてしまうからではないか。
 テロは悪であるけれども、そのテロが行われてしまうこの世界で生きていくという現実を認め、自らの内部に「悪」が潜んでいることをも自覚しつつ、それでもテロをなくしていくにはどうすればよいかを模索するという視点が必要ではないかと思う。

 実はこのような思考の形態は、Bookshelfの『生命学に何ができるか』で触れられ、そこでは「悪からの遡及法」と命名されている。

 悪を一方的に断罪するという背後には、「自分は善だ」という認識が見え隠れする。
 これは「原理主義」という、自らが信奉するものへの極度の純粋性の追求による、それ以外の「異物」の排除と構造的に同じなのだ。


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Updated : 2001/11/26