Location : Home > Contemporary Files > 2001 Title : The peace never come. (2) |
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さて、先週示した論点について順に記していこう。
今、「9月11日に起こったWTCビル&国防総省への航空機激突事件」という微妙に奇妙な言いまわしをした。というのは、「テロ」の定義をめぐって様々な議論があり、これが「テロ」ならばこれまでに合衆国が他国に為してきた一方的な軍事力の行使は何だという反論もあるからだ。そこでまず論点1。
ホントはいろいろと考えていたのだが、当のビンラディン氏がテロだと認定してしまった。
11月11日付のサンデー・テレグラフ紙(イギリス)によると、ウサマ・ビンラディン氏が、自分の支持者向けのビデオを入手し、その中で、「9月11日に起こったWTCビル&国防総省への航空機激突事件」と私が表現している事件についての関与を認めたと報じた。
ビデオの中でビンラディン氏は、
「世界貿易センターのツインタワーは正当な標的だった。米国の経済力を支えていた。一連の出来事は、どの尺度で測っても、偉大な事業だった。単に巨大なビルを破壊しただけでなく、あの国の精神的支柱を破壊したのだ」
「ハイジャック犯はアラーの神の祝福を受けて、あの国の経済的・軍事的象徴を破壊した。我ら同朋の殺害に報いることがテロだというなら、歴史は目撃するがいい。我々はテロリストだ。無実の民だろうが殺す。これは法的にも宗教的にも論理的にも、正当なことだ」
と主張したと報じられている。
「テロリズム」の語源はフランス革命後のジャコバン党による恐怖政治(テルール;la Terreur)にあり、明確な価値観を持つ、それに従わない者への物理的・精神的暴力を用いる、それにより恐怖を与える等という特徴は挙げられるのですが、ならば個別の事情について「この集団のこの行為はテロか?」という話になった時に、異議を唱える集団が必ず存在してしまう。
例えば合衆国はいくつかの「ならず者国家」を指定しているわけですから、国家によるテロという概念が存在することになり、「非国家による体制に対する無差別的暴力の行使」と定義すると矛盾を生じますし、「抑圧されている人々への一方的暴力」と定義すれば、そもそも合衆国の各地への空爆はいったい何だという声もあがるだろう。
実は、先日まで「テロ」というのは、それを押さえこみたいと願う側からの呼称で、その行為を起こす側が自称することはないのではないと考えていた。テロを起こす側からの主観で言えば「自分は“テロリスト”などというものではなく、“戦士”である」だろうから。圧倒的な「暴力」に対する、「正当な」抵抗。合衆国に「ならず者国家」と名指しされている国々も、今回の一連の動きの中でテロには反対しているのは、そういう心理が背景にあると考えると、その態度に納得がいくからだ。
そこへ、先に挙げたビンラディン氏のビデオである。基本的な主張は、やはりあの行為を「正当な」抵抗であると思っているということは間違いないように思う。明確に「自分が命じた」と言っていないという点だけを取り上げたら彼を犯人と断定はできないと考えることもできるが、もし犯人でないなら一連の米英軍の攻撃に対し、「私(たち)は無実であるにもかかわらず、理不尽な攻撃を受けつづけている」と主張しつづけたほうが世界の世論を自分たちに引きつけられるであろうにそれをしてこなかったことから、極めてクロに近いと判断せざるを得ない。
当の本人がテロだと認めてしまったので、テロ。
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Updated : 2001/11/12
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