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Title : A sense of incongruity
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Contemporary Files #20010521
違和感
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 今週の大きな話題は、1つは皇太子妃殿下(←正式にはこう呼ぶべきなんだろうなぁ。皇族を敬いたがる人が「雅子様」って呼ぶのって矛盾してると思うんだけどな。それからついでに有名なギャグを。右から読んでも「まさこさま」。左から読んでも「まさこさま」。)のご懐妊で、もう1つはハンセン病訴訟。
 けれども皇室ネタは「日本で「愛国者」は可能なのか?(その2) 」(1999/11/15)で、ハンセン氏病に関しては「この国の人権感覚」(2001/01/14)で既に触れているので敢えて扱わないことにして。

 それ以外で気になった記事と言えば、15日に福岡の高校生と見られるか2人の少女が都内で飛び降り自殺を図って亡くなったことだ。残されたバッグには遺書らしきものがあり、「理由はない。しいて言えば疲れたから」「死ぬ理由もないが、生きている理由もない」などと書かれていたらしい。おしいな。そこに気がついたのなら、あと一歩踏み込んで考えることが出来たなら、見える世界が広がっただろうに。

 私は小さい頃からこの世に対する違和感があった。
 居心地が悪い、というのではない。
 「私はこことは違うどこかに居るべきなのだ」という焦燥感でもない。
 ただただ、自分が「今」「ここ」に居ることが不思議だったのだ。私はなぜ奈良県に生まれたのだろうかとか、なぜ男なんだろうかとか、なぜ目の前の2人が両親なんだろうかとか、なぜ私は姉より後に生まれてきたんだろうとか。だって、どこにもその必然性なんてないじゃないか。バカなこと考えるな、なんて言っちゃいけない。そういう疑問を持ってしまった者にとってはこれは深刻な問いなのだ。この問いの行きつく先は、確かに、「生きている理由もない」なのだ。
 でも、先ほど私は「あと一歩踏み込んで考えることが出来たなら、見える世界が広がっただろうに。」と書いた。それは、自分がそんなに深刻に悩んでいることに関して、圧倒的大多数の人々は悩みもしないか、悩みがあるにも関わらず生きているという事実に気がつくこと、だ。そうしたら、この世に違和感を持つだけの者から見える答えとも、そういうことを疑問にも思わない者とも違う答えが見つかるはずだ。でも、ここでは敢えて書かない。


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Updated : 2001/05/21