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Title : Warmheartedness
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Contemporary Files #20010527
統治する側の論理
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 こういうことを書くと顰蹙を買うのだろうけど、ハンセン病訴訟で国側(厳密には官僚か?)が控訴をしようとしたのは、論理としてはわからないでもない。
 また、こういうことを書くと人情がないと言われるのだろうけど、滋賀県で少年が「少年法が改正される前にやっておきたかった」と、障害のある友人を施行直前の3月31日に襲って死に至らしめた事件に対し、新少年法の適用を要望する署名というのがあるのだが、これには無理があると思っている。
 特に後者の事件については、正直なところ、もし私が関係者だったら、その犯人の少年をとっつかまえて復讐したい気持ちに駆られる。それでも、だからといってこの事件だけを法の施行前にも関わらず新法の適用対象とするというのは無理だと思う。無理、というか、筋が通らなくなるのだ。
 本当に、人情としては許せない。でも、仮にこの事件について署名が集まっているように、新法の適用したとしよう。そしたら、3月31日に少年法(新法)の適用対象となる年齢の少年の起こした事件についてもすべて同じ処置が採られなければならない。さらに仮にそうしたとしよう。だったら、さらにその前日(30日)に起こった事件の対処はどうなるのか。きりがなくなるのだ。

 法治主義の求める平等は、時に残酷である。けれどもその残酷な平等がなければ個別の案件の処理に追われて収拾がつかなくなるか、その裁量権を持つ者が異常に権力を持ってしまうかのどちらかになる危険がある。
 ある事件の被害者がかわいそうだからと思って「この事件だけだから」と裁量の余地を持たせると、他の事件の被害者からすれば「だったらこの事件も」となる。個人が1人を人情で救うとしても、その人情の及ぶ範囲・限度があるから、まあ、どこかで止まるけど、国の場合は理念上、(仮に人情を働かせるなら)全国民に働かせなければならない。もしくは何らかの根拠を示してある種の線引きをしなければならない。

 「より多くの人のためになることをする」ということと「どの1人にも不遇な境遇にあわせない」ということは、哀しいけれど、矛盾することが多い。統治する側は、涙を飲んで裁断をする必要がある。

 統治する立場でなくてもおなじような状況になることがある。
 ある1人に手を差しのべること…この行為は人間として正しいと思う。
 では他の同じ境遇の人にその手を同じように差し伸べないことはどうなのだろうか?


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Updated : 2001/05/27