Location : Home > Humanisphere > Eyes
Title : Discriminate
Site:Felix Logo
「殺すこともヒューマニズムである。」

 初めて週刊ヤングサンデーを買った。
 (このコーナーではお馴染みの)『The World is Mine』の続きを早く読みたいからだ。
 展開は実に強烈である。
 秋田に潜伏していたトシ&モンが人質のマリアを連れて、山中へと逃亡したところだ。警察は彼らを追い詰め、マリアを解放するようにように説得する。しかし決裂。捜査員の一斉射撃でマリアは被弾、死亡する。その瞬間、ヒグマドンが現れ、捜査員はほとんど死亡、生き残った塩見警部補はトシを逮捕した。(モンは現段階では生死不明。)
 しかし、逮捕に至るまでの被害は大きく、塩見警部補(青森県警所属だが、ずっとトシ&モンを追っている)と指揮を執った須賀原秋田県警本部長らが記者会見に応じることとなった。事態の早期収拾のためには多少の犠牲も辞さないという姿勢で望んできた須賀原本部長は会見の席上、次のように語る。

最後にこの国のすべての人間に挑戦したい。
人権を差別せよ。
自ら社会を逸脱する者にその生における平等はない。
人命を差別せよ。
社会と個人の命を秤にかけた時、民主主義は迷わず社会を選択せねばならない。
「ヒューマニズム」を差別せよ。
その言葉の響きに酔いしれ思考を停止した者のみが殺すこと全てを悪とする。
人間とはあまりにも不完全な度しがたい生き物であるにもかかわらず
神をも恐れずに懸命に守るべき命と葬るべき命を選択してきたのだ。
ならば 差別すること 殺すこともヒューマニズムである。
反論を唱える者は自らの覚悟と信念を試していただきたい。

 そして、須賀原は自分の拳銃で自決する。

 さて。彼の「挑戦」に、どう答えるべきだろうか。
 彼の主張は、テロリストが人質を取って逃亡を図った場合に欧米において採られる手段を説明したものと言える。ハイジャックの要求に対しての断固たる拒絶や、先のペルーの日本大使館篭城事件への強行突入による解決もそうだ。将来、より大きな危険を巻き起こすのを防ぐために今ここで仕留めるという発想である。

 彼の主張を頭ごなしに否定するのは簡単だ。理想的には犠牲を出さずに解決できればいい。しかし、彼の主張を否定するなら、代替手段を提示しなければ無責任な言動になってしまう。もちろん、この話はフィクションであるけれども、県警本部長という、県民の生命と財産を守るべき立場にある人間であれば、治安を乱す者による被害を極小化し、沈静化しようとするだろう。それが責務だ。解決のために、多少の犠牲が出ることを覚悟の上で作戦を遂行することを、治安を維持する側は考えるだろう。そこで、少ないとは言え、犠牲が出るのはけしからんと批判し、その手段を凍結させた時に、より被害が拡大した時に責任をとらされるのはその批判者ではなく治安維持の責務を負った者になる。これは酷と言えば酷である。

 ちょっと考えてみよう。
 緊急時に、人間の持つ権利や尊厳を制限し得るのか?
 し得るとすれば、その根拠は何か?
 制限された権利や尊厳の回復はどのようにして行うのか?

 いかなる場合にも制限し得ないとすれば、その結果として、その他の人間へ被害が拡大する場合、その矛盾をどのように回避するのか?

 そう、犯罪者になる可能性が低く、一方的に被害者になる可能性が高く、被害者にはやはりなりたくないであろう一般市民としては、実は須賀原本部長の言い分にしたがったほうが(おそらく感情や意図に反して)楽なのだ。だから、「反論を唱える者は自らの覚悟と信念を試していただきたい。」と須賀原本部長は言えるのだ。理念的に、というのではない、事実としてもそうだろう。例えば旧オウム真理教の残党(という言い方を敢えてする)に対する、一般社会側の対処はまさしく基本的人権(移動の自由や就学の自由等)の制限である。そして、一般市民はそれを非難するよりはむしろ望んでいる。

 …なぜ私が正面きって須賀原本部長の主張を否定しないのか、いぶかしがる方もおられるだろう。いや、先ほども書いたが、ヒューマニズムの名の下に否定するのは簡単なこと。問題は否定した後だ。「民主主義」は、その本義から言って「多数の、多数による、多数のための支配」であって、必ずしも1人1人を大切にすることを意味しないということが、須賀原本部長のセリフによって指摘されているからだ。

 『国家』(プラトン)や『社会契約論』(ルソー)とかを読めば、「民主主義」の本質が「多数の支配」であり、「民意」(それが何であり、どのように形成され、内容がどのようなものであろうとも)に従がわないものを圧殺する全体主義の卵を内包していることが読み取れると思う。

 須賀原本部長の言う、「殺すこともヒューマニズムである。」というセリフは、「1人でも犠牲を少なくすることが民主主義社会における『ヒューマニズム』であり、社会を自ら逸脱し、社会に対して危害を与えるものを排除することは、より多くの人を守ることである。そのためにはその逸脱者を殺すことも、(1人でも多くの)人を守ると言う意味での『ヒューマニズム』である。」ということを意味する。これを否定し得る論理は、「だから民主主義なんてダメなのさ」というニヒリズムか、「いかなる犠牲も認められない」という原理主義的民主主義だ。前者はともかく、後者の立場に立って、「いかなる犠牲も認められない」という美しい言辞を口にした上で、事実として「いかなる犠牲も」出さない解決策を(提案するだけでなく)実行すること、「民主主義」の内包する牙を抜いた上でそれでもなお民衆の1人1人を守る方策を実行すること、もしくはその「民主主義」の内包する牙と共存する方法を考えること。それが須賀原本部長の「挑戦」への回答になるはずである。が、その道はあまりにも険しく長い。


…ため? : PreviousNext : 死ぬべき命
Site:Felix Logo
Updated : 2000/08/28