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Title : Imagine deaths around you
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Contemporary Files #20071119
死への想像力
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Requiem

 先日、ヴェルディのレクイエムを聴いた。特にそれが聴きたくて…というわけではなく、たまたま妻の友人が参加している合唱団の定期演奏会での演目がそれだったというだけのことだが。私は楽曲としてのレクイエムは、モーツアルトのものも、フォーレのものも好きだ。が、別にレクイエムを好んで聴いているわけではないので、ヴェルディのレクイエムを全曲聴いたのは(特に生では)初めてだった。ヴェルディのレクイエムには、死者の魂を弔うには劇的するという批判もあるようだが、そもそもレクイエムは−いや、一般に弔いというものは−死者の魂ではなく、その死者に縁のあった者が死を受け入れ、悲しみを浄化させるためのものではないのか。

 そんなことを考えながら、私はヴェルディのレクイエムに、久しぶりに音楽を聴いて鳥肌が立った。

『象の背中』

 偶然ではあるが、その演奏会の前日に、注文していた『象の背中』のDVDが届いた。もちろん今公開中の映画のDVDではなく、そのテーマをモチーフにしたアニメ版(ただしCDに付属しているDVDなので短いバージョン)のほうだ。
 TVでもこのアニメ版のことは報じられたのでご存知の方も多いだろう。
 いつも思うのだが、映画だのドラマだので「泣ける!」と宣伝するのはおおきなお世話だと思う。泣くかどうかは、製作者の意図だの感性だのではなくて、視聴する側の感性と人生の経験値と想像力の度合いで決まるものだからだ。でも、「大事な人」を失ったことのある人、そして失いつつある人、旅立つ途中である人だけでなく、「大事な人」が側にいる人にとっては泣けてしまうに違いない。
 おそらく私が独身のときにこれを観ても、「いい曲だねぇ」という程度の反応しかしなかっただろう。Amazon のカスタマーレビューで「値段の割りに短い」という反応をしている人もいたが、それは楽曲(+映像)への対価としての反応であって、その映像や歌詞から想起するものへの反応ではないのだろう。

 音楽とは単なる音の羅列ではなくて、そこから思い描く情景のことである。

 自分が「旅立つ」または「大事な人が旅立つ」ということを経験した、または想像できてしまう状況にある人は、たぶん、『象の背中』を観たら泣いてしまう、または少なくともウルウル来てしまうのではなかろうか。
 個人的には、「最初の夜だけ泣いてくれ」という箇所でウルウル来てしまった。

 人が別れを受容するにはいくつかの段階(喪の仕事;Mourning work)を経る。最初は対象との離別という現実を否定する。次に対象との再結合を試みるも失敗し、心的な解体に至る。けれども(普通は時間とともに)対象との離別を受容し、心的再建状態に入る。平たく言えば、どんな近親者の死であっても、どこかでそれを忘れないと、元の…正確にはその人がいなくなったことを前提にした…生活に戻ることができない。自分が旅立つ側なのであれば、早く立ち直って欲しいけど、全く気丈に振舞われても何だかさびしい。その妥協点が「最初の夜だけ泣いてくれ」のように思える。自分が、その気持ちがわかるような年齢になってきたってことかも知れない。

死への想像力の限界

 今月15日、岐阜と長野の県境の恵那山に小型飛行機が墜落し、3名の犠牲者を出した事故があった。そのニュースを目にしたとき、ほんの一瞬、何か頭の片隅でひっかかるものがあった。でもそれが何かがすぐにはわからなかった。
 昨日、友人から、「殉職」というタイトルのメールが届いた。私は、犠牲者のうちの1人に面識があったのだ。しかし学生時代にそのメールをくれた友人を通じて顔を合わせ、ほんの数回会った程度でその後やり取りがなかったので失念してしまっていたのだ。ニュースを目にしたときの「ひっかかるもの」とは、一度は聞いた名前だったからだ。けれども友人がメールで「お通夜と告別式に行ってきます」と連絡をくれるまで、その人だと認識できていなかったのだ。わずか数度会っただけとは言え、自分と縁のあった人の死をきちんと認識できなかったことに、申し訳ない気持ちが沸き起こった。誠に申し訳ないけれども、彼の死が、私がその死をリアリティを持って悼むことができるぎりぎり限界であるのかも知れない、と思った。
 地球の裏側で大勢の人が亡くなった災害や事件に対して、その死に弔意を示すことはできる。けれども、その事実を自分の身に引き受けて、哀しむことは事実上無理だ。人の死を受け入れるには限界がある。自分から(必ずしも血縁的な距離ではなく、心理的な距離で)近い人の死を受け入れるだけでせいいっぱいだ。

 そう、リアルな死は固有名詞でしか語られない。具体的な誰かが死ぬのだ。それはもはや「想像力」ではない。具体的な喪失感だ。

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Updated : 2007/11/19