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蒟蒻問答
落語に「蒟蒻問答」というネタがある。
江戸で悪い遊びのために食い詰めた熊が、田舎に居る六兵衛のところへ転げ込んだ。ずいぶんと髪の毛が抜けてしまった熊をみて、蒟蒻屋を営んでいる六兵衛は、今は住職がおらず荒れ放題になっている寺の住職にあてがった。
ある日、熊と六兵衛の2人が寺で酒盛りをしているところに旅僧がやって来た。僧は修行のために諸国をめぐり、寺を訪れて問答を行っているとのこと。是非この寺でも問答をさせてほしいという。けれども熊は修行僧ではないので相手になれんということで追い払おうとするが旅僧は聞かない。そこで六兵衛は「無言の行」で対処して、僧になりすまそうと言う。
というわけで問答が始まり、旅僧は問いを重ねるが、当然六兵衛は答えない。
旅僧は、何かを察したらしく、両手の指で輪を作り、胸の前に出した。
これに対し六兵衛は両手で大きな輪を作った。
旅僧はその答えに恐れ入り、今度は両手を広げた。
六兵衛は、片手を開いて応えた。
旅僧は今度は指を3本差し出した。
すると六兵衛は人差し指で右の下まぶたを引きながら舌を出した。
これを見た旅僧は「私の修行不足でした。」と退散していった。
何が起こったのか皆目わからない熊は、旅僧を捕まえて理由を聞いた。旅僧が言うには、こういうことである。
どうやら和尚は「無言の行」の最中だから言葉を発しないのだろうと気づき、こちらも無言で問おうと
『大和尚、ご胸中は?』と尋ねると、
『大海の如し』と答え。さらに、
『十方世界は?』と聞くと、
『五戒で保つ』との答え。さらに、
『三尊の弥陀は?』と問うと、
『目の下にあり』と。
とても愚僧では遠く及ばないので、今一度修行して出直して参ります。」と言うことだった。感心した熊が寺に帰ってくると、六兵衛は怒っている。先の旅僧はどこかの蒟蒻屋のまわし者に違いない、と言うのだ。
何を聞かれても知らん顔をしてたら、これは蒟蒻屋の六兵衛と気づきたらしく、
『お前の店の蒟蒻はこんな大きさだろう』言うので、
『これくらいでかいぞ』 と言ってやった。すると
『十丁でいくらだ?』 と値段を聞くじゃないか。
『五百文だ』 とふっかけたら、
『三百にしろ』 と値切ったから
『アカンベエ』 をした、と言うのだ。
なんというか、アンジャッシュのコントみたいに互いに互いの受け答えを自分の都合のよい(けれどそれなりに一貫性のある)解釈をしていたと言うわけだ。
チューリングテスト
前節と同じようなパラドックスにチューリングテストの不可能性(?)というのがある。
まず、そもそも「チューリングテスト」って何かということだけれども、Wikipediaにでも聞いてくれい。
チューリング・テスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/チューリング・テスト- チューリング・テスト (Turing test) とは、アラン・チューリングによって考案された、ある機械が知的かどうか(人工知能であるかどうか)を判定するためのテスト。チューリングテストを機械が意識しているか、機械が理解しているかの基準とする考えもある。
実際には、見識のある人間の判定員とそれから隔絶した場所に判定したい機械と本物の人間を用意し、(機械が音声や仕草まで模倣する必要を避けるため)キーボードを使って会話をしてもらう。そして判定員は判定対象にどんな質問をしても構わない。もちろん判定される対象はきちんと回答してもよいが、適当なことをいったり無視しても構わない。そうして、もしも判定員が機械を人間だと取り違えれば、その機械は十分知的な存在であると判定される。 この中で、隔離された人間は判定員に人間であると確信させようとすることはもちろん、機械も人間らしく思わせるためにいろいろな人間の模倣を行う。具体的には、わざと質問をはぐらかす、間違った回答を示す、答えるまでに余分に時間をかけるなどである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
えー。わかるかな、これ。実に先の「蒟蒻問答」と同じ間違いをしそうなにおいがぷんぷんするでしょ。で、実際、サールと言う哲学者が「中国語の部屋」という反論(というか思考実験)を出した。でも、まあ、これにも穴があって逆に批判されたりもしたけれど。
ひょっとしたら、現在ではAIはチューリングテストに合格するかも、なんて思い始めてきてる。それは人工知能のレベルが上がってきてるからじゃなくて、人間の外界からの刺激に対する反応っていうのが機械的になりつつあるというのか、いや、ひょっとしたら知能レベルそのものが下がってきてるのかも知れないけど。
(知能が低下しているかどうかがとりあえずおいとくとして)わかりやすい例はネット(BBSやブログ)での炎上(フレームアップ)だろうね。チューリングテストだと人間かAIかという判断をするわけで、選択肢は2つしかない。これはこれで何か決定的な証拠が1つでもあればすぐに判断がつくだろう。けれど、対面していない状況で(何かシステムを介して)コミュニケートしている時には、相手は人間だとしてもその人間の知能…というかその頭の内部で蠢いている情念だとか蓄積されてきた知識だとか、目下の肉体的・精神的な健康状態だとかは通常はわかりっこないし、「AかBか」という選択肢そのものが設定不可能だ。けれども、容易に「こういう反応するヤツは○○に違いない」と勝手に「チューリングテスト」にかけちゃって、勝手に「蒟蒻問答」してしまってるんだわな。まだ落語の蒟蒻問答は片っ方が逃げ出して笑いでお話が済んでいるからいいんだけれど、昨今の日本の(だけじゃないかも知れんが)状況って、「勝手チューリングテスト」→「蒟蒻問答」が、決定的な妄想に行き着くことがままある。
これがネット上ならまだましなのかも知れない。BBSだのブログだのであれば、最終的にそのサイトを閉めれば強制的に終了することができる。けれど、これが実世界の行動へと結びついたときには、破滅的な結果を生み出してしまう。
人間のコミュニケーションは完全ではないのだから、対面での対話であったとしても、多かれ少なかれ、「勝手チューリングテスト」→「蒟蒻問答」が行われている。けれどもそれをできるだけ想像力と、時には寛容で補うことで衝突を避けるのが人間の(大人の?)社会なんだろうと思う。でも、あ〜ぁ、って感じの事件が最近多いよねぇ。。。。
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Updated : 2007/01/10
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