Location : Home > Contemporary Files > 2003
Title : Deterrent
Site:Felix Logo
Contemporary Files #20030725
「イラクに民主主義は根付くか?」
/ BBSへGo! /

 ときおり、私の手元には、試験かレポートに困ったと思われる大学生からメールが届くことがある。実は先日も国際関係論で出された4つの問題のうち2つ選択で答えなきゃいけないんだけれども、自分の思っていることがうまくまとめられないので何かサジェスチョンを、というような内容のものだった。その学生さんが答えようとしていた問題だけ答えたんだけど、実はその中に、個人的には面白いと思っていた問題があった。まあ、このご時世なので、テーマはイラク戦争について、だ。合衆国のやり口をどう評価するかとか、復興はどこが主体でやるべきかとか、まあ、書きやすい問題もあったんだけど、一番わたしの脳細胞を刺激したのは、表題の「イラクに民主主義は根付くか?」というもの。

 あくまで試験問題(またはレポートの課題)だと思って、あるうる立論を挙げてみるよ。

 1つめは、現実には困難だろうという立場。
 2つめは、「民主主義とは根本的に欧米の政治思想・歴史・文化を反映したものであり、イスラム圏には適応されない」と言う立場。つまり、イラク(及びその周辺地域)に民主主義を定着させるなんて、ワニに腹筋させるようなもんだと言う立場。
 3つめには、合衆国が望むそのままの形態ではないかも知れないが、イスラム流民主主義が成立する余地があり、それが根付くことになるだろう、という立場。

 「民主主義」とは何か、「民主主義が根付く」とは何を意味するか、イスラムと「民主主義」は共存するか、そもそも宗教と社会の関係はどうある「べき」か等々、掘り起こせば非常に深い論考が描けるんだな、この設問。その授業を担当した先生の立場とか思惑とかはわかんないけど、答える側の人間の視点がどこにあるか、どこまで深いかを探るにはいい問題だなと思う。

 最も書きやすいのは1つめの立場だろう。合衆国がイラクを攻撃した背景の1つに、中東に親米の民主主義国家を1つ確保しておくと、それが橋頭堡となって順にこの地域全体がドミノの駒が倒れていくように民主化へとなだれ込んでいくという発想があると思うが、合衆国が「ドミノ理論」を言い出すのは今回が初めてではなくて、アイゼンハワー政権の時代にベトナムの共産化を許せば東南アジア全体が次々に共産化していくとの理由でベトナム介入が始まったという先例がある。結果はご存知のとおり。こういう感じで「だって今までうまくいってこなかったし、今もうまくいきそうにないし」ってことをいくつか例を挙げればいい。試験だからねぇ。でも、「今回はうまくいくかも知れないじゃん」というツッコミを排除することはできない。だって論拠が「今までそうだったから」だから。

 2つめの立論で迫ると、問題の基底が“イスラムと「民主主義」は共存するか”というところに移ってくる。もう少し言えば、“イラクは純然たるイスラム国家か?”という問題もその上には横たわっている。(…と書いた意味がわからない人は、なぜイラクでバース党が権勢を握ったのかをちょっと調べてごらん。結構「世俗的」ではあるんだよ。あくまで程度の問題だけどね。でなきゃイランと戦争になったりしなかっただろうから。)
 この立論でいくなら、まず「民主主義」の本質をきっちり概念規定しとかなきゃいけない。そしてそれがイスラムの原則に抵触することを立証していかねばならない。その過程で、自分が「民主主義」とイスラムの双方をどう理解しているかが如実に表れてくる。仮に「民主主義」をその語義どおり「多数の支配」とし、イスラムの特質を啓典を基礎とした社会機構に見出すなら、その衝突を描くのは、(日本人にとっては)さほど難しくないだろう。

 今、民主主義とイスラムの「衝突を描くのは、(日本人にとっては)さほど難しくないだろう。」と書いた。というのは、私は、ひょっとしたら日本は世界でもっとも「政教分離」が徹底している国かも知れない(ただし反語)という意識があるからだ。
 私の理解では、政治とは「人間の行動規範を外面から与えるもの」であり、宗教は「人間の行動規範を内面から与えるもの」であり、日本では、この両者は完全に別物だと理解されているフシを強く感じるからだ。これは「宗教は心の中の問題なのに、政治に口を出すのはおかしい」という議論(?)に顕著に現れている。これって、(言っている本人が気づいているかどうかはわからないが)人間の行動規範を内面から与えるもので外面の行動を規定してはならないという言明なわけ。これはこれで1つの考え方ではあるけれど、おそらく世界的には少数派じゃないんだろうか。両者を一致させるべきだという立場もあるし、両者は違うこともあるけど両立させる立場(「カイザーのものはカイザーに返せばよい」という論理ね)も可能。だから、ほんとうは、社会における宗教の立場というか役割と言うか、そういうものをどう自分は受け止めているか、という問題を一度整理しないと、“イスラムと「民主主義」は共存するか”みたいな問いには答えられないと思うのだが、日本では、おそらくこの問いの深刻さは認識されないで素通りされてしまうだろうってこと、ね。

 もし試験の結果を無視できて、おそらく欧米側にとってもイスラム側にとっても望ましい未来を構築することを目指すなら、3つ目の立論に挑戦するとよい。論理の構成はほとんど2つめの立論と同じになってしまうかも知れない。「だからだめ」と持っていくのか、「だから両立する方途を模索する」と持っていくのかの違いだ。もしこの路線で論をまとめるなら、本で言えば『イスラームと民主主義』が、研究機関で言えばCSID (Center for the Study of Islam & Democracy) が参考になるだろう。
 「イスラム」と「民主主義」とを別々に検討し、どちらかがどちらかを包含しうるか、という立論ではなく、それらを貫く共通の−それが「普遍的」であるかは一旦おいてこう−基盤を模索することから始めるのだ。その結果として欧米側にもイスラム側にも納得できる(少なくとも許容できる)解が見つかれば、互いの不信に寄る緊張度は低下するだろう。

 さて。いま、日本では自衛隊をイラクに派遣するのしないので喧しい。憲法に抵触するだのしないだのっていうのは、そりゃ日本のお国の事情でしかない。どうして、「それが世界にどういう影響をもたらすの?」とかいう発想で議論できてないのは知的にも政治的にもお寒い状況だ。
 ただ、日本がイスラムのあり方について何か価値的な貢献ができるとはなかなか思えないが、「平和的な貢献」を主張する人々はこのあたりからの検討を目指して欲しいものだ。もしこれが可能になったら、実に大きな世界史的貢献になりうるかも知れないから。

 最後に。私にこの問題を投げてくれた学生さん。もしヒマになって−もう夏休みでしょ?−、まだその問題について考える気力と知的好奇心があるなら何か書いて送ってきてみてね。

[Previous] : 2003/07/10 : 「犯人」探し
[Next] : 2003/08/15 : 抑止力
[Theme index] : 国際
Site:Felix Logo
Updated : 2003/07/25