Location : Home > Contemporary Files > 2003
Title : Mob or the Public?
Site:Felix Logo
Contemporary Files #20030522
民衆をどこまで信じるか
/ BBSへGo! /

 さて、今週、不思議に思ったことをいくつか。共通点があるような気もするし、他人にとってはないのかも知れないし。んで、まあ、この週末は引越しでばたばたして Web の更新どころじゃないってこともあって、今、更新しとく。

 今週末に引越しを控えてるもので、今週は荷造りをするためにがんばって早く帰宅している。が、まずは食事をしながらテレビをみたりなんかするわけで、先日はたけしの『TVタックル』を見ていた。特集のテーマは裁判員制度についてだった。

 ほう、裁判員制度をご存じない? 裁判員制度というのはだな、何かと不祥事とか現実の社会の感覚から離れた判決を出すと批判されている裁判制度の改革の目玉として、一般の社会人が裁判官と同じ資格で裁判に参加する制度のこと。おっと、そんなの勝手に騒いでるだけでおいらにゃ関係ないって? いやいや。その「裁判員」は選挙人名簿から無作為に選ばれるんだ。もしあなたに選挙権があるのなら、この制度の確立後はいつなんどき、あなた自身が指名されるかも知れないんだよ。
 え、そんなのことわっちゃうって? いやいや、選ばれた裁判員は、健康上の理由などやむを得ない事情がなければ、出廷する義務を負う。いいかい、「義務を負う」だよ。仕事があってもそれを休んで(たぶん「公休」扱い)、育児があってもその子を誰かに預けて参加しなければならない。当然ながら裁判官と同じ「守秘義務」を負う。だから係争中の裁判について、家族や知人に相談してはならない。

 …んな面倒なことやめろよ、みたいな感想を持っちゃいましたか、そこのあなた。
 くだんの『TVタックル』の参加者はほとんど、「現実問題として、専門家の意見に従属してしまう」「よく発言する人の言いなりになりかねない」「被告人が怖そうな人だったら報復が怖くて普通の判断ができない」とかの反対意見ばかりだった。でも、なんだか、その批判の仕方は変な気がする。

 アメリカの陪審員制度ってのがある。そっちのはあくまで「陪審員」なんだね。一般人が裁判の評決に参加するんだけど、決められるのは有罪か無罪かだけ。有罪の場合の量刑は裁判官が決める。日本に導入されようとしている裁判員制度は、その量刑の決定にすら一般人が参加する。そのことを「おかしい」と思います? そこのあ・な・た。
 「おかしい」と思う根拠は、おそらく、「素人に判断できるわけない」に集約されるような気がする。けれど、私には、この1点をどう考えるかで、その人の民衆観が表れると思うのだ。

 「もちろん個体差はあることは否めないが、民衆には等しく理性が備わっており、多少の知識の差はあれども、理路整然とした説明を行えば、理解し、きちんとした判断を下すであろう」という立場で、民衆を最終的に賢いものだと信じる立場に立つのなら、「素人に判断できるわけない」とは口が裂けても言えない筈だ。(「口が裂けたら言えません」というツッコミは個人的には好きだかここでは無視するぞ。)
 今、「民衆を最終的に賢いものだと信じる」と書いたが、これは、現時点では、やはり事実として「賢い」とはいえないとしても、教育や民度の向上により改善しうる、(年月はかかっても)賢くなりうるのだと信じるという意味である。以前にも掲示板で書いたけど、現実主義的理想主義者である Felix は、この立場を採る。もちろん、この考え方は事実として間違っているかも知れない。いや、それでもいい。仮にそうだったとしても、そう考えて行動した結果は無駄にはならないと思う。
 もちろんねぇ、制度なんてねぇ、完璧なものはないんだから、どんな制度にしても何がしかの欠点はあるだろう。だから、「こういう欠点がある。だからその制度そのものは全否定されるべき」なんてのはすっごく「反対のための反対」に思えるわけ。そんなの技術的なことじゃん。技術的なことは技術的に解決すればいい。そもそもこの制度を採用するか否かの議論というのは、「最終的に社会における良し悪しを判断するのは誰であるべきか?」って観点が必要な気がする。少なくとも反対派はこの私の疑問に対する説得力ある回答を望む。(ってったって、ここ見てないか。)

☆ ☆ ☆

 次のネタ。
 りそな銀行に公的資金導入が決まったよねぇ。私名義の口座はそこにはないのですぐには困らないが、新居の家賃の引き落としの口座(妻の名義)があるので、無関係っていうわけでもない。が、とりあえず、そのことはここには関係ないのでおいとく。公的資金投入が妥当か、とか、そもそもそういう措置の是非はどうだ、とかその手の問題もあるけど、ここで問題にしたいのは、その発表後、竹中平蔵経済財政・金融担当相が「株主責任としての減資は考えられない。」と言ったことだ。「株主責任を問わないのは何事だ!」と問題にしたいんじゃないぞ。そもそも株主責任なんてものが問われることのほうが何かおかしいと言いたいのだ。

 会計学とか経営学に関してはまったく造詣がないので間違っていたらフォローしてほしいんだけれど、出資者の責任を株券を買った分に限定して、それ以上責任を問わないように制度化したものが、株式会社ってものじゃないのか? 経営に従事しているものが経営責任を問われるのはいい。出資者が出資責任を取るのは、株券がただの紙切れになること以外にはないはずだ。それから、出資者が経営責任なんて問われるのはおかしいだろ? もし経営がうまくいってない責任を株主が取らねばならないのなら、会社が不祥事を起こしたり倒産したりするたびに、債権者は株主を追っかけてもよいことになるぞ。そうじゃないだろ? そうしなくてすむようにしたのが株主会社だろ? もしくは、私の理解の間違い?

 これとよく似てる(と私は思う)のが、日本国憲法第15条第4項の規定・「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」だ。
 普通選挙制度っていうのは、本音はともかく、建前として、民衆(選挙の場合は有権者に限るけど)の個別の判断にはいろいろあるが、総体として賢明な判断をするという前提がないと成立しない。そうでないなら、はなっから選挙権を制限しときゃいいんだから。でも、だからと言って、その結果選ばれた政治家が不祥事を起こしたからと言って、その人に投票した人に責任が及ぶことはない。もちろん秘密投票なんだから投票したかどうかを特定できないという技術的な話もあるんだけど(いや、まあ、細かいこと言えば特定しようとすれば技術的にはいくらでも可能だが)、原理として責任を問わないことにしている。

☆ ☆ ☆

 ある社会における判断をなさねばならないとき、やはり、その判断ができる人に判断してほしいだろう。で、その判断できる人が、どこにでもいると判断したから、普通選挙とかが可能になる。株だって、MBA持ってなきゃ買っちゃだめなんてことはない。「民衆は賢明な判断をする」という理念と「その判断の結果責任を全員に取らせることができない」という現実のせめぎあい(妥協?)で社会は成立してるっていう面がある。

 もちろん、さ。私の言っていることにも弱点はあるよ。知りたい人はソクラテスがなぜ死ななければならなかったのか−もう少し正確に言うと、どういう訴因で裁判にかけられたのか−を調べてごらん。それに関係があることだ。
 私の書いてることが正しい、なんてことは主張はしない。でも、私が言っているようなことは一度は考えてほしいなぁと思う今日この頃なのであった。

[Previous] : 2003/05/13 : 個人情報保護法案に反対するなら
[Next] : 2003/06/26 : 教師の能力
[Theme index] : 日本社会関連
Site:Felix Logo
Updated : 2003/05/22