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「定説」
たぶん、この言葉が今年の流行語大賞になるんじゃないだろうか。
今週一番のお騒がせと言えば、ライフスペース(宗教法人ではないようなのでカルトとも言えない。何に分類すればいいのか困る)のグルこと高橋氏の記者会見で連発された「定説」だ。
- 高橋氏の血管には血が流れていないらしい。
(それなら「血管」とは言わんだろー。「血ィ吸うたろか」と言いたくなるな。)- 脳内出血すると3日間で確実に死ぬらしい。
(私の知人で10年以上も前にくも膜下出血で倒れた人が居るが、今はピンピンしているぞ。)- 高橋氏はサイババの後継者らしい。。
(でもサイババは高橋氏なんて知らないという。そのことを指摘されると、「それはサイババの勝手」とか。師匠から認知されないのに後継者を名乗るほうが「勝手」じゃないのか?)
うう。いちいち反論するのがむなしくなってきた。この方面で考えるのをやめよー。
もし、今回の「事件」で建設的なものを考えようとするなら、死に向かう患者と家族のあり方という観点があるかも知れない。
この「事件」で、ライフスペース側が一方的に男性を隔離し、「治療」をしていて、家族が帰して欲しいと訴えていたならわかりやすかったのだが、今回は家族までライフスペースに居るわけだ。つまり、「被害者」がいない。家族も納得している。単に、周囲からみて不気味ということだ。だが、彼ら(特に家族)に「あなたたちはひどい」と言えるのだろうか?
家族が納得した上で、現代医学による治療を拒否し、家族の近くで過ごせると言う状況に対し、第3者はどこまで口をはさんでよいか、という切り口がありうる、ということだ。
(ライフスペースの主張を弁護する気持ちは一切ないので、あくまで一般化した議論として読んでほしいのだが)心臓死こそが人間の死だという主張は、客観的な事実というよりは、長年の人間の習慣でしかなかったのではないか? もしそれが「定説」なら、脳死判定に基づく臓器移植などもってのほかの殺人行為だということになる。
また、死んだら三途の川をわたって「あの世」へ行くという観念は、ほぼ日本に特化したもので、世界的には、「裁きの日」に神が「最後の審判」を下すというのが一般に流布している(信じている人の数が多いと言う意味での)「定説」ではないのか。
自分たちとは死生観があまりにも違う(それにしたがって、「死」の定義も、死に瀕する者への扱いも異なる)集団が、自分たちと地理的にかけ離れているところに住んでいたら、彼らの文化であると冷静にしていられるだろう。今回は、それがすぐ近くのホテルでなされたものだから、要するに、「気色悪い」のだ。
もしライフスペース側が、海外の様々な地域における末期医療のあり方や死者の扱い方、殯(もがり)の儀式などを示し、日本人の死生観をえぐってくるような主張をしてきたら、奥の深い議論が可能だったのに、なんともはや。
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Updated : 1999/11/22
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