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Title : Patriot
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Contemporary Files #19991108
日本で「愛国者」は可能なのか?
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 最近の言論界(と言って何を指すのかは微妙だが)は、日本という国家を誉めるかけなすかのどちらかという見方で分類できるような気がする。誉める側は、けなす側を「自虐史観の持ち主」というような呼び方をする。けなす側は誉める側を「国粋主義者」というようなニュアンスで呼ぶ。
 両者を見分けるのは簡単かも知れない。
 前者は、日本を「日本」と呼ぶ。でも、後者は、日本を「この国」「こんな国」と呼ぶことが多いように感じる。

 が、まあ、誉める側がすべて「自由主義史観」の持ち主でもないので、極端な分類と言えばそうなのだが、どちらかといえば、現状では前者の方が分がいいように感じられる。

「分がいい」と言っているのであって、「正しい」とは言ってないよ。

 それは、主張の「正しさ」(「正しい」ってなんだ、という問題もあるんだけれど)と言うよりは、基本的に、自分の居る場所を肯定するというスタンスだからだ。後者の立場は、「そんなにいやな国なら出て行けよ」という反論に、究極的には答えることはできない。「この国」がどうしようもなくて、否定するしかないが、改善していくんだ、という立場を採ると、「この国」を善くしてしまうので、結局、「国のため」に働くことになるからだ。ということは、その表面上の主張とは反して、実際にはこの国を愛してやまないことになる。

 しかしながら、では、日本のやること為すことを何もかも無条件に肯定できるか、というとそれには賛成できない。日本古来の伝統・風習が無条件で美風だとも思ってはいない。

 それでも、とりあえず、自分が生まれ、育ってきたこの土地と風土(それを「国」といっていいのかどうかは微妙だが)を、基本的には肯定したいという気持ちがを持つことは不自然なのだろうか。

 現在及び将来の日本で「愛国者」は可能なんだろうか?

 「愛国者」という呼び方自体に拒否反応を示す方もおられるだろうし、血湧き肉踊る方もおられるかもしれない。違和感があるなら、別に、呼称なんてどうでもいいんだが、単純に、今、自分のいる、この場所(及びその歴史)を否定し尽くして、何も誇れるものを感じることができなくて、それで明るい将来を思い描けて言われても、かなり困難なのだ。

 「この国」の悪口をいい、非難することは簡単だ。

 では、その先に何があるのか。

 「日本」を誉めることのみに明るい未来があるなどとノーテンキなことを言うつもりはないが、少なくとも、スタンスとして、何かを肯定する切り口で語れないものだろうか。


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Updated : 1999/11/08