Location : Home > Contemporary Files > 1999 Title : Road to "Ordinary Nation" |
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「やるじゃない やりすぎじゃない 小渕さん」
こういう狂歌がある。
去年、内閣が発足したときには、誰もそんなに期待してはいなかっただろう。にもかかわらず、それこそ、これまでの内閣ができなかった法案可決をいくつも成し遂げた。だから、「やるじゃない」。でも、その通過した法案が法案だから、「やりすぎじゃない」、というわけである。この状態を、北岡伸一・東京大学教授が中央公論11月号の“「普通の国」の準決勝”で「普通の国への転換」であると評している。
北岡氏が言う「普通」でない状態とは、「政府の国民に対する過度の保護と干渉、政府の意思決定過程の不透明さと遅さ、安全保障問題における無関心」である。確かにこの点については、これまで常に先送りされていた問題であり、特にこの1年で法制化されたものばかりである。この「普通の国」という言い方も含めて、自由党、なかんずく小沢一郎の主張が実現されつつあるということであろう。『連立政権』(草野厚;文春新書)では、この状況をうまく図示している。
自民党は、いわば「鵺」のような存在であるから、与党でありつづけるために自由党の提唱する政策に近づく可能性は十分にあるだろう。
自民党の実質的な党是は、Going Concern −とにかく(与党として)存在しつづけること−なのではないか?
確かに、世界的な政治の流れから言えば、日本も先進諸国の一員として「普通の国」となることは不自然なことではない。しかし、実際にその方向に動くべきか否かは、当然、日本の(国民の)判断である。自由党の提示する「普通の国家」観に対抗しうる国家観とその実現方策をセットとして提示し、それを国民に浸透させることができない限りは、この方向が規定の国家方針となるであろう。
しかしながら、対抗するはずの民主党は上図の下部(第3象現・第4象現)の軸付近にぼんやりと広がることになり(ちなみに共産党は第4象現の下部)、必ずしも明確でない。
おそらくぼやぼやしてたら、日本はどんどん「普通の国」になっていくであろう。
しかし、それでよいのか。
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Updated : 1999/11/01
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