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Title : Human rights over Human rights
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Contemporary Files #19990614
人権保護のために人権を蹂躙すること
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 コソボに対する空爆は終了し、ようやく「戦争」は終結した。ところがクリントン大統領もミロシェビッチ大統領も「勝利」を宣言している。NATO側にしてみれば。事実上の全面降伏に等しい和平案を受諾させたわけだから、勝利といえば勝利だ。しかしユーゴスラビ連邦共和国にしてみれば、主権も領土も保全を確認されている(←安保理決議第1244号)わけだし、度重なる空爆にも「参りました」とは一言も言っていないどころか、コソボ地域から多くのアルバニア人が(難民として)出ていったわけだから、目的は達したと言えなくはないのだ。実際には「勝者」などいない。ただ、ユーゴスラビア(及びその周辺諸国の)国民という被害者がいるだけではないのか。

 NATOの主張によれば、この「戦争」はユーゴスラビア連邦共和国における民族浄化という人権蹂躙を止めさせるために、制裁として始まったもののはずだ。しかし実際には予想を遥かに超える難民流出という新たな人権問題を発生させてしまった。この点については、日本国内ではどうやらNATO側の分が悪い。大勢が力ずくで関係ない一間で巻き込んで小さな小さな国をいじめているという図式に見えてしまうからだ。「空爆反対!」と声高に主張する人に、「では、コソボでの民族浄化は見逃してもいいのか?」と聞いても、「話し合いで解決すべき。」や「空爆停止が先。」と言った回答しか得られない。もちろん人がいくらでも死んでよいと主張したいわけではないし、心情的にはそうなのだが、何か現実味を欠いた話であり、釈然としない。それは以下のようなことが頭をよぎっているからだ。

 人権を平気で蹂躙する者が存在した時には、その制裁のために人権を蹂躙してよいか?
 蹂躙とはいかないまでも、ある程度の私権の制限は許されるか? それはどの程度までか?
 その本人への制裁を加える途中で第3者への影響は(どの程度まで)許されるか?

 このような問題が背景に潜んでいるように思える。
 理想的には、いかなる人権蹂躙も許されないわけだから、回答は全てNOである。NATO空爆反対派のうちの感情派もそういう主張をするだろう。では軍事制裁ではなく経済制裁ならよかったのか? これについては『経済制裁という名の大量破壊兵器』(" SANCTIONS OF MASS DESTRUCTION " by John Mueller and Karl Mueller ; 論座1999年7月号所収) で指摘されているように、犠牲はより広範になり「犠牲者」が多く出ることを見過ごしている。これにより第3項に抵触する。
 逆に冷酷に考えるならば、刺客でも放って、ミロシェビッチ大統領1人を暗殺するという方法がある。これは「被害」が極小に留めることができるので、ある意味で「人道的」ではないか。
 しかし、それを誰も口にしない。
 おそらく現実的には第2項の、その制限の程度がどこまでなら容認できるか、ということになる。

 こう書いているうちに、日本の社会情景とダブってくるように思えてきた。
 例えば、最近、またオウム真理教の活動が活発化しているようであり、日本国中、おそらく圧倒的大多数の人が何とかして欲しいと思っているだろう。だから、オウムを取り締まるためには、その会館に出入りする人物の住所から移動先から通信から何から何まで捜査して、アブナイとなれば即逮捕してほしいと思っているだろう。何かと話題の通信傍受法も、適用先がオウムだったら文句を言う人も少ないだろう。
 また彼らの精神的支柱であり、数々の反社会的行動を指示したとされる松本千津雄(表記自信なし ^^;)1人を極刑にしても、ほとんどの人は当然だと思っているだろう。
 しかし、これは対象がオウムだからだ。

 おそらく多くの人は「悪い奴には人権がない」と口には出さないけれども、実際のところはそう思っている。
 でもそれを真正面から言葉にされると反発してしまう。時と場合によっては人権は制限されるものなのだという覚悟を強いられることなど、ここ55年ほど日本は体験していない。これが現在の日本のあちこちで火を吹いているのではないだろうか。


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Updated : 1999/06/14