Location : Home > Contemporary Files > 1999
Title : The Age of Domestic Violence
Site:Felix Logo
Contemporary Files #19990524
「内戦」の時代
/ BBSへGo! /

 冷戦終結後、もはや世界では、国家対国家という形での戦争は不可能になったのかも知れない。

 Foreign Affairs (January/February 1999, Volume 78, Number 1) でスティーブン・デービッド(Steven R. David )は次のように指摘している。

 冷戦終結後、今や内戦がほぼ唯一の戦闘形態となった。国家間戦争はほぼ関心を引かないとは言え、各国の内戦は分総勢力の「本来の意図とは関係のないところ」で、国境を超えた破壊的衝動を伴う。

 この「国家間戦争から内戦の時代へ(Saving America from the Coming Civil Wars)」という論文の中で、著者は、国内紛争によって安定した政府が倒れれば、それまで水面下にあったさまざまな脅威が表面化する危険があり、安定した政府がなくることで大量破壊兵器の管理も甘くなり、流出を招きかねない。さらに、国境周辺で内戦が起これば、大量の難民の流入などによって、隣国の安全が脅かされるなどの問題が噴出する、と主張する。
 ところが、これまでの「内政不干渉」と「国家主権の尊重」という国際社会の建前のもとでは、他国は国内の紛争に介入しないのが原則のはずであった。合衆国も、冷戦時代の「世界の保安官」的役割から抜けようとし、国連やそれに類する同盟の力を借りて各地の紛争に対処するようになった。

 さて、Domestic な問題に、どこまで「部外者」は介入できるのだろうか?

 最近、世界的に家庭内暴力(domestic violnece)が問題になってきている。日本語で「家庭内暴力」というと、思春期の子供(主に息子)が家族に暴力を振るうことであるが、最近問題にされているのは、夫(もしくは恋人)の妻に対する(性的なものを含む)暴力のことである。多かれ少なかれ以前よりそのような事実はあったのだろうが、社会的に認識され、対策を講じることの必要性が訴えられている。しかしながら、この問題も、「やはり家族の問題なのだから、その家族で解決しなさい。」という考えがないわけではない。いや、実際の解決のためには、最終的にはそうなる。「家庭の事情」も部外者には分からない。調停者による合理的と思える介入も、当事者たちにとって適切であるとは限らない。

 同じForeign Affairs (January/February 1999, Volume 78, Number 1) でジョン・R・ボルトン (John R. Bolton)は次のように指摘している。(「国際法は戦争犯罪をどこまで追い込めるか 〜 国際法と国内法のあいだ 〜」The Global Prosecutors: Hunting War Criminals in the Name of Utopia )

 戦争犯罪、大量虐殺、人権弾圧などの、世界の他の地域での「非人道的犯罪」に対するマスコミや市民権運動家たちの関心は高まる一方だ。一部には、「人間性に対する犯罪は、もはや虐待行為が行われた国だけの問題ではない」のだから、国際法をつうじて一律に処罰すべしという声も出てきている。たしかに、民意を代弁できる世界政府(あるいは国際機構)、そして世界憲法(あるいは強制力を伴う国際法)が存在すれば、特定の国家の内部で起きた非人道的事件をグローバルな規模でとりしまり、処罰するのも可能になるかもしれない。しかし、現実にはそのようなものはないし、それが実現する見込みもない。
 国家は憲法を持ち、その憲法を軸に政府が秩序を維持し、しかも、政府がそうする権限は選挙をつうじた民意に支えられている。これを世界規模へと広げるのは、事実上不可能であることを認識した上で、問題に対応するしかない。だが、われわれはいずれ「憲法」と「国際法」のせめぎ合いの時代が到来する可能性に備えるべきだろう。

 「人権」は確かに国境を超えるものであろう。しかし、すくなくとも現時点では、人権蹂躙を取り締まる法律は国境を超えてはいない。ならば、ある国によるその国内における人権蹂躙を裁くことができるのか、が問題となる。
 どうも日本で流通しているこの問題に関する言説は、リアリズムに欠けている。
 いや、「人権」など国家が守るもので、その国家自体に守る意図がないなら、他国はいかんともしがたい、と主張したいわけではない。人権が国家主権に勝ると主張するなら、国家主権を制限し、人権問題に関して内政干渉を認めるような枠組みを構築することを主張すべきであって、日本国内でワイワイと騒いでいるだけでは、単なる自己満足にすぎないのではないか、と言うことである。

 合衆国のシンクタンクが公表している、コソボ関係の論文を探索していくと、KLA(コソボ解放軍;Kosovo Liberation Army)への協力を主張しているものが散見される。(例えば The Kosovo Liberation Army and The Future of Kosovo by J.H.Andersen & J.Phillps)
 こういう論文を複数立て続けに読んでいると、合衆国の取る戦略として、適当な時期にNATO軍、以後はKLAへの(資金・武器などの)援助に切り替え、コソボ地域の根本的な和平はなかなか訪れず、どろ沼の内戦に突入、というシナリオがほのかに見えてしまうことに、戦慄を覚えてしまう。

 さて、このような事態になったとき、単純に「空爆即時停止」のみを主張している方々はどうするのであろうか?

 考えるべきことは、その後のこの地域の安全保障ではないのか?


[Previous] : 1999/05/17 : すぐそこにある核
[Next] : 1999/05/31 : 「普通の国家」
[Theme index] : 国際
Site:Felix Logo
Updated : 1999/05/24