Location : Home > Contemporary Files > 1999
Title : Mement mori.
Site:Felix Logo
Contemporary Files #19990301a
脳死をめぐって
/ BBSへGo! /

 この週末(2/26 - 2/28あたり)の新聞・テレビの報道はほぼこれ一色であったと思えるくらいに、高知赤十字病院での脳死状態と思われる女性患者のことが扱われていた。
 その女性がドナーカードを所持していたので臓器移植法に基づく脳死判定が施行され、幾度か判定が揺れたが、執筆時点では脳死と確定したようだ。記者会見で、「まだ脳波に電気的な動きがある」と言ったことから「まだ」とは何事だ、脳死になるのを待っているのか、という批判もあったようだ。しかしここではそういうことを考えたいわけではない。

 現在の報道は、常に「どうなるか」という視点でしか扱っていない。しかし脳死の問題は、今回の事象がどのようになるかではなく、自分が直面したらどうするかという視点で迫らないと、それこそワイドショーのように患者の日常から病院の内部の人間関係がどうとかくだらないアプローチにはまってしまうだろう。

 学生時代にこのテーマについては、バイオエシックス関係の本を読みあさって考えてみた。学問的にはいくらでも小難しいことは言えるが、そのような言説が、そのような事態に直面した人を救うとは思えない。
 脳死は古来ありえなかった。近年の医学の「進歩」のなせる技である。
 これまでは生も死も、言わば「瞬間」の事象として捉えていても問題はなかった。胎内から出てきた瞬間が事実上の生の始まりであり、心臓が止まった瞬間が生の終わりと言ってよかった。けれども、最近は、そこに時間差が発見−というか延長−され、過程としてみなされるべきものとなった。
 脳死が「不可逆的な脳の機能停止」であるならば、誕生は、不可逆的な生物の機能継続−それ以降はそのまま細胞死することはない−とも言えるわけですが、ではどこからが「不可逆」と宣言できるのかは不明確なままなのだ。

 「脳死」という状態からは理論上は蘇生できない。(何しろ「不可逆的」だから)
 が、「脳死」と判定された状態からの蘇生はありえる。
 心臓死(と判定された状態)が死んだと言い切れる根拠も同様で、後は医療関係者に対する信頼とか判定技術の問題になってしまう。

 やや不謹慎な例えかもしれないが、劇画・『北斗の拳』でケンシロウが相手をやっつけて、まだ相手に意識があるのに、
 「お前はもう死んでいる。」
と言う。それで言われた方は、
 「何を言ってやがる!」
と言うのだけれど、結局「ひでぶ!」と叫び、破裂してしまう。

 確実に近い将来、肉体が破壊されるのだから、「お前はもう死んでいる。」とケンシロウは言う。しかしそれが本当にPoint of No Return であったのかは、最期まで観察して事後的にしか確認できない。実際、『北斗の拳』でも、2人(サウザーとファルコ)が秘孔を突かれても、その影響を封じてしまった。

 そうなると、
 (1)だからやめよう
 (2)だからやるんだったら、厳重に注意をしてやりましょう
ということになると考えられる。

 もちろんは脳死を認めないという考えもあるし、そういう活動が活発なのも知っているが、「自分が認めない」から「社会的にも認めさせない」というのはどうかと思う。かと言って、社会のすべての人に対して、「脳死を死とする」と決定して押し付けるのもどうかとも思う。
 とりあえず現段階で、私が考えているのは、どちらか一方でなくてはならないということではなく、(1)の立場をとる人には(1)を、(2)だと思う人は(2)を選択し、それぞれが矛盾しないような手続きなり制度なりを整備することが必要じゃないか、ということである。
 そして、その選択は、それこそ自分の生命をかけて個人が行う、と。

要するに、誰もが『私が決めたんじゃない、そう決まってるからだ』と言い訳をしたいだけなのだ。

 私の意見は、死の定義を自分で選べ、という立場である。
 法律で整備すべきは、その定義を個人が明文化する際の有効な手続きを定めることではないかな、と考えている。
 法律で「死の定義」は行うべきではない。脳死を死とみなしたい人がとるべき手続きと、それをとった人が脳死した際の対処法を策定すべきではないか、と思う。
 この種の手続きをしない人の場合は、従来の死の概念(心臓死)を適用するものとして。

 死の定義により、死の順番が入れ替えわって、遺産の相続順序で問題が生じる、とかいう議論もあるが、死の定義の差異による諸問題を考慮した上での、個人による定義の採択ということにすれば「問題」を回避できるのではないか。
#脳死だから問題になるのではないということ。

 Mement Mori 死を思え。

 自分が死ぬとは何なのか。
 自分が死んだらどうなるのか。
 いや、自分の死をどうするのか。
 この問題を、日本人に直面させるよい機会なのかも知れない。


[Previous] : 1999/02/22 : エネルギー業界の新しい動き?
[Next] : 1999/03/01 : NIMBY あるいは NIABY
[Theme index] : 日本社会関連
Site:Felix Logo
Updated : 1999/03/01