第2話【幕間】
朝霧の中に黒衣の影が微かに浮かび上がった。まだ、街の隅々によるの余韻が散らばる頃に故郷の土に降り立った若者の影である。
故郷の土はたとえそれが人工のものであったとしても、変わらぬ心地よさを若者に与えてく
れた。
そんな穏やかな心地よさのなか、確かな足どりで住宅街に足を踏みいれた若者は似合わぬた
めらいを見せた後、マンションの一室のドアを静かに叩いた。
朝の静けさを破られた住人が、ゆっくりドアを開けると、変わらぬ微笑みを浮かべた懐かし
さが、そこにいた。
「・・・!?」
微笑みの主は、声も出せずに立ちすくむ住人に、穏やかな笑顔を見せながら流れるように言
葉を綴った。
「久しぶりですね・・・」
突然舞い降りてきた若者が招き入れられたのは、狭いながらも落ちついた雰囲気の部屋だっ
た。
「いつ、こっちに帰ってきたんですか?全然、連絡もくれないで・・・。みんな、心配してい
たんですよ。」
優しげな、女の言葉に何を感じたのか、幼い表情には不釣り合いな自嘲めいた笑みを浮かべ
ながら呟いた。
「皆・・・では、ないでしょう・・・」 そんな若者の言葉に母のように穏やかな表情を漂わ
せながら、女はなだめるように、ため息混じりで言った。
「また、そんなことを言って・・・。あれから随分立つのに全然変わりませんね、その性格
は・・・」
そんな、女の言葉を聞き流したように、すました手つきでカップをはじいた。
「君も相変わらずみたいでなによりです。あの頃は、今もかも知れないけれど、ぼくは子供で
したからね。君に迷惑ばかりかけてましたね。ほかのみんなも、もう落ちついているんでしょ
う?」
「・・・も?」
来訪者の言葉に、戸惑ったように女は聞き返した。
「もうすぐ結婚するんでしょう?ジューン・ブライドかな?」
当然のことのように話す若者に、なおも怪訝な顔を女は見せた。
その表情を視て、来訪者はまるで幼子のような笑顔で部屋の片隅の婚礼衣装の書かれた貸し
衣装のパンフレットを指さした。
「・・・相変わらず目敏いですね。私のことより、貴方はどうしていたんですか?少しくらい
連絡があっても良さそうなものなのに。」
慌てるように話題を変える表情を笑顔で見返してから、テーブルの上の紅茶を一口含んだ。
そうして笑顔の主は違うことを口にした。
「イングリッシュ・ブレックファースト・・・ですか?なかなかに、いい味がでてますね。僕
でも多分こうはいかない。かなり修行しましたね。」
笑顔の中になにか不可侵なものを感じて女は少し黙って自分のカップを傾けた。 もっとも
こちらはエスプレッソの入ったカップではあったが・・・。
穏やかな日溜まりのなか、二人の間に懐かしい、優しい時間がすぎていった。 時に誘われ
るままに、若者は懐かしさを過ごし、昔を感じた。
優しげに微笑む若者を見て、女は少し意地悪げに微笑み返した。
「何故、一番知りたいことを聞かないんですか?まさか、いまだに意地を張ってるんです
か?」
その言葉に、一瞬悲しげに窓の外を見た後、若者は陽気さを装って強がりを口にした。
女が想っているのとは違う心の動きを隠すために・・・。
「あんな気のきつい、頑固で、意地っ張りで、プライドの高い女のことなんか知りたくない
よ。」
いままでとは違う言葉遣いで、すねるように言う若者を見て、しょうがない人、というよう
な顔をして女は微笑んだ。
「あの頃から悪口の種類は変わってませんね。」
穏やかな風が、カップの間をすり抜けた。
普段は、その幼さが故に、女よりも若く見える若者の表情を、年相応の、それ以上の落ち着
きが風に乗って取り巻いた。 その風が、女の引っかかって出てこなかった言葉を促した。
「何故、この街を出たんですか・・・?」
静かに微笑んで窓の外を見つめた若者に、女はさらに静かに問いかけた。
「あの娘がいたから・・・?」
その言葉に、黒衣の若者は静かに目を伏せた。
暖かく凍りついたような二人の間を、しなやかな黒髪の幻影が静かに流れていった。
「これは答にならないかも知れないけれど・・・。僕にとって、しあわせであることと、僕の
望みが同じではなかったんだ。それがどんなに辛いことでも、変わらない・・・、変えられな
い・・・と、わかってしまったから・・・。」
少し辛そうに見つめる女に、陽光のような明るい笑顔で微笑んだ。
「まあ、僕は不器用な人間だからね。そのうえ、頑固で、意地っ張りで、プライドが高いから
ね。この病気だけは一生治らないかも知れないね。」
そう言って、若者は静かに立ち上がった。
いつのまにか部屋にはバーミリオンの光が流れ込んでいた。
「あんまり心地いいから、時間を忘れてしまいましたよ。そろそろマスターも店に出てきてい
る頃でしょう。これから行ってみます。」
夕日の街に向かおうとする背中は、何故か最後の時を迎えるかのような寂しさが彩ってい
た。
その背中に、向かって、優しい女の、優しい言葉が、優しく綴られた。
「あの子も、帰ってきていますよ。」
その言葉に応えるように、風がテーブルの上のカップを小気味よく響かせた。
その小さな音は、全てが凍りついたような時間の中を静かに滑って行った。
それは、死の宣告のように若者の心には響いた。
「そうか・・・。帰ってきているのか。あいつが・・・。」
噛みしめるように吐き出された言葉は、なぜだか、確認の響きで女の心を刺激した。
「知っていたんですか?やっぱり・・・」
滑りだした言葉にも、振り向きもせずに若者は話しを促した。
そんな若者の背中を見つめられずに、女はそっと目を伏せた。
「実は少し前、あの娘もここに顔を出したんです。まるで今日の貴方みたいに、突然に・・・」
凍りつく背中に、女は懸命に言葉を綴った。
「それで、今日みたいに昔のことをいろいろ話していたんです。その時に、『貴方がこの街に
帰ってきていることを知ったら、あの人はきっと喜ぶでしょうね。』って言ったら、あの娘、
『知ってるわ・・・そして、あの人も帰ってくる・・・』って、びっくりするくらい穏やかな
声で・・・」
女は少し思い詰めた表情で一気に言葉を綴った。
それが若者にとって最後の審判にも等しいことだとは気づかずに・・・。
ゆっくりと顔をあげた女の目に、微かに揺れる若者の肩が映った。
泣いているのかのようにさえ見えた。
ここは深い傷を負った者が入る街。
女は夕暮れの光の中に指をのばして、若者の肩に触れようとした。
その哀しい優しさを振り払うように、振り返らずに若者は応えた。
「泣いては・・・いませんよ。道化師は泣いてはいけないから・・・。舞台の幕が降りるまで
は・・・。」
哀しみの蒼に彩られた天使は、優しい指に触れられることなく、バーミリオンの光の中に消え
て行った。
その夜、若者は哀しみの黒髪に再会した・・・。
互いの役を演じながら・・・。
寂しい魔王の住む街で・・・。
<魔王の住む街・第1部・第2話【幕間】終わり>
・第3話【堕天使】へ続く