第1話【少女】
それは、一瞬の出来事だった----。いや、正確には地球という惑星の永い歴史の中では確かに一瞬とも言える時間しか流れては
いなかった。たとえ人類にとってそれが永劫にも似た時間であったとしても。
その瞬く間に過ぎ去った永い時間に人類は滅びと再生、支配、そして、過ちを経験した。
そして、そのときにはすでに人類は月を含めた地球圏にその生活の場を広げていた。
しかし、幼き人類にはそのすべてを制御する術がなかった。過ぎし人々からむしりとった技
術を用いて世界を制御しようとした人類は、さらなる過ちを積み重ねる。
その結果が、歪に成長し巨大になった化け物として人類を覆い尽くそうとした。
人類を支配しようとしたものそれは巨大なコンピュータ網だった。
あたかも脳の神経のように張り巡らされた通信網がその化け物の正体だった。
惑星サイズの脳をもつ、いや、脳そのものの化け物。人類になす術はなかった。
脳を維持するために支配されようとしていた人類を救ったのは、過ぎし人々の埋もれた技術
とその血をわずかながらに受け継いだものたちだった。
彼等はその力を駆使し、次々と巨大な脳の神経網を分断していった。
「人類を解放した力」
それは肉体から切り離された精神をコンピュータ網に送り込む技術。そして、それを支える
常人には得られぬ精神力。彼等はまさに過ぎし人々の血を継ぐものだった。
だが、世界が再びかりそめの平和に覆われたとき彼等は人類にとって恐怖となった。
その奇蹟のような能力、そして、かつての支配者の血。それでも人類は彼等を受け入れた。
受け入れざるを得なかった。不相応に巨大になりすぎた世界を維持するためには彼等が不可
欠だったのだ。
プログラムダイバーというおよそセンスのかけらもない名称を統治者たちに与えられた彼ら
を人々は尊敬の念を込めてこう呼んだ。
The Round Table
すなわち
円卓の騎士
と、
そして、忌み嫌いながらこうささやいた。
Lunatic blood
すなわち
狂気の血筋
と…
世界は闇に包まれていた。正確には彼等に知覚できる世界はである。彼等の前には先ほどま
で一人の男と一匹の豺がいた。この時代には存在しないはずの豺を彼等は当然見たことはな
かったが、それでも彼等にはそれが豺だとはっきりとわかった。
彼等はこの企業に雇われたセキュリティー専門のダイバーだった。つまり、ファイヤー
ウォールである。絶対数の少ない彼等ダイバーを4人も配置するだけの情報がそこにはあっ
た。そして彼等はその情報を守るためにそこに存在した。
豺と一緒に現れた男は彼等にとって排除すべき侵入者だった。
その無邪気な笑顔に一瞬、我を忘れそうになった。
相手はひとり、こちらは4人。十分に相手を支配下に置ける数の差だった。そのはずだっ
た。しかし、現実に支配下に置かれたのは彼等の方だった。
彼等の放つ幻影はことごとくうち消された。いや、まるでその闇に飲み込まれていくよう
だった。
この世界での攻撃は有り体に言えば相手に「死」もしくはそれに類することを、つまり、
こちらが与える情報を受け入れさせることによって行われる。その手段が幻影と呼ばれるもの
である。相手が受け入れやすいように具体的な情景をぶつけるのである。たとえば、剣を手に
戦うものもいる。銃を発射するものもいる。もちろん、力量の伴わない幻影は相手にとってた
だの映像にすぎない。繰り出す幻影を相手に受け入れさせることができる状況を作り出すこと
を、支配下に置くという。通常は風が吹くとか音が鳴るとか香りが漂うなどといった少しの変
化から徐々に相手を支配下に置いていくのだ。
しかし、目の前にいるはずの敵は違った。不意に彼等の前に現れそして、いきなり彼等を支
配下においたのだ。しかも、現実感の伴わない、ただ、知覚を奪うという方法をもちいて。
それだけで相手が並の技量ではないことがわかる。圧倒的な空間支配力。彼等はこの世界が次
に変化を見せたときが自分たちの最後だと確信していた。
そして、世界は再びよみがえった。彼等は以前と変わらぬ状態でそこに存在した。
変わったのはただ一つ、彼等の記憶に侵入者が存在したという事実が残っていないということ
だけだった。
やわらかな女の髪が、
夜の街のネオンに舞い降りたのは、紅く輝く5月の夜だった。
街はいつもの通り、ここでしか暮らせない者達の活気に満ちていた。
原色のネオンのなかで、寄り添うことしか知らぬ傷負い人達。
そんな原色に彩られた住人達が、ふと目を留めた先に女がいた。
暗い夜の街に、ネオンだけで照らされた哀しそうになびく女の漆黒の髪。
泣いているかのようにさえ見えた。
ここは深い傷を負った者が入る街。
滑るように店の前を横切る黒髪に、
いつもなら気にも留めない住人達がなぜだか、懐かしさに心を引かれた。
月光に慣れた街の住人には、
その寂しい光は眩しく、
月影に慣れた街の住人にさえも、
その眩しい闇は寂しかった。
人々は、その寂しさに、眩しさに、
衝き動かされたかのように足早に家路についた。
泣いているかのようにさえ見えた。
ここは深い傷を負った者が入る街。
寂しい魔王の住む街。
同じ頃、幼さを残した若者は光の中に舞い降りた。
完成して間もないスペースコロニー。正確には居住環境が整っただけの開発途上コロニーで
ある。まだ、労働者たちが多く、一般の居住者は少ない。
どこにでもありそうな町並みに、どこかしら違った空気が流れているのを感じながら、
若者は待ち合わせの場所に足を踏みいれた。
待ち合わせには若者は必ずと言って良いほど、酒場を指定していた。
それもできるだけ小さなカウンターバー、をである。
そんなところの方が落ち着いて飲めるし、なにより昔からの好みでもある。
<天璽(あまつしるし)>のからの依頼を受けるための待ち合わせである。
<天璽>とは、彼等、<侵光者(ダイバー)>によって運営されている<匠合(ギルド)>
のひとつである。そもそも<匠合>とは依頼の取次や彼らが蓄えてきたデータの管理、その
他、トラブルの処理などを行うところであり、このような組織は<天璽>だけではないが、こ
の組織の歴史は長く、その原型は巨人族の反乱にまで遡ると言われている。
若者はどのフリーではあるのだが、この<天璽>との交流は古く、今度の依頼は、そこの知
人からのものである。
「Fallen Angel…か、また古風なものを呑んでるじゃないか。」
いつものようにカウンターの隅でグラスを傾ける若者に、銀髪の男がそう言って声を掛けた。
「貴方ほどじゃないですよ。また、ローヤルですか?」
振り向きもせずに若者は男が注文するものを的確に言い当てた。
もっとも、若者は銀髪の持ち主がそれしか呑まないのを知っていただけなのだが…
そんな若者の考えを読みとったのか、男は不服そうに反論した。
「自分だっていつもそれを呑んでるじゃないか、人のことが言えるのか。あ、ローヤル、ボ
トルごとちょーだい。」
最後の言葉は奥にいるバーマンに向けてのものである。
自分への非難い若者ははじめてその幼さの残る表情で、銀の光を瞳に映した。
ほっといてください。二杯目からは色々やるんですから。」
小憎らしく言い返す若者に、年の離れた弟を見るような表情で、銀の髪の男は語り掛けた。
「なんだかこの街は妙な感じがするな。」
突然、そんな事を言い出す男に、何かを感じながら若者は顔を見た。
確かに男の言うとおりだった。
ここは他のコロニー群からは離れた新しいコロニーである。
どこかの軍事産業が、全面的にバックアップして作られたものであるらしい。
その新しいコロニーに、ならず者達の姿が見えないのだ。
全くいないというわけではないが、少ないのである。
新規のコロニーでは、多くの場合、犯罪者や、犯罪予備軍のような者達が多く流れ込む。
労働力の絶対的不足のために移民審査が甘くなるが故に起こる事である。
それなのに、である。
「それは認めますけど、僕には関わりのない事ですよ。」
若者はつれなくあしらった。
そんな態度を気にした様子もなく自分のグラスに琥珀の光を注ぎ込みながら言った。
「まあそういうなよ。ここじゃ、同じよそ者じゃないか。」
そう言って男は若者の隣で手にしたグラスを一気にあおった。
どこか憎めない男の雰囲気に若者はあきらめたようにグラスを突き出した。
「1杯ぐらいは、飲ましてくれるんでしょう?」
無邪気に笑う若者のグラスに、男は笑ってボトルを傾けながら話を始めた。
「今度の事件は、どうやらFlying Dutchmanが関わってるらしい。」
顔には無邪気な笑顔を浮かべたままで、若者は聞き返した。
「Flying Dutchmanが、ですか?」
こちらは少しまじめな顔で、答を返した。
「ああ、知ってるだろう、Flying Dutchmanの事は・・・。」
若者はなおも笑顔の間々首を縦に振った。
Flying Dutchmanとは、ダイバー達が、体から心を切り放し電界に潜り込んでいる最中
に、体に何らかの異常が生じた際に起こる現象である。
ここで言う異常とは、肉体の死を意味する事がほとんどである。
通常、肉体を失った精神は消えてなくなるのだが、ごくまれに電子網の中で生き続ける事が
ある。
そんな者達の事を、幽霊船に魂を束縛された伝説の船長になぞらえて、さまよえるオランダ
人、Flying Dutchmanと呼ぶのだ。
「で、どんな被害が出てるんですか?」
右手に持ったグラスを揺らしながら、若者は尋ねた。
「うちのダイバーがある事項について調査していたんだが、その仕事に関わっていた者、三
人の内二人が殺されて、一人が何とか戻ってきた。そいつの話によると、どうやら人為的に作
られた可能性があると言うんだ。」
ほんのわずかな間、若者の顔に陰りがよぎった。
「それで<天璽>の攻撃部隊である<八握剣(やつかのつるぎ)>が動いたんですね。完全
に抹消するつもりですか?」
珍しく真剣な表情に、少し眉をひそめて銀髪の男が言い放つ。
「今晩、潜るぞ。詳しい資料は、おまえの相棒に送ってある。」
そうして、グラスを空にしてから二人はそれぞれのねぐらに戻った。
それぞれの場所から侵入するために、である。
酒場からホテルに戻ってきた若者は、外の冷気を振り払って、ベッドに腰掛けた。
足元には、黄金の豺が座り込んでいる。この時代にはすでに絶滅して久しいこの動物は、若
者のサポートマシンである。
サポートマシンとは、彼等ダイバーを電子網に送り込むための装置である。その姿は様々な
動物の形をしており、疑似人格を与えられている。普段から相棒として生活をともにすること
が多い。
彼等こそが失われた技術の遺産であり、かつて人類を救ったものである。
「どうした、馬鹿に機嫌がいいじゃないか、何かあったのか。」
このせりふは、足元の豺が発したものである。
若者は酒場から帰ってから、妙に機嫌がいいのである。
「別に、それよりもアクセスの準備は出来ましたか。」
足元の黄金毛をしなやかに撫でながら豺に尋ねた。
「当たり前じゃ。今すぐにでもアクセスできるぞ。」
誇るように言う豺の額をしなやかな指ではじきながら、真顔で言葉を返した。
「今度の相手はFlying Dutchmanですよ、油断できる相手ではないでしょう。」
額の指を気にしながらも、言い替えした。
「油断しなければ、やられる相手ではないじゃろう。」
嘯く豺に微笑みを与えながら、幼さの主は体をベットに横たえた。
「そうとなったら、さっそく行きましょうか。ゆっくりしている暇はないでしょう。」
そう行って、時計の針が重なり合う時刻に、若者は肉体から電子網へと滑り込んで行った。
少し現実離れした風景が彼らの周りに広がっていた。
洞窟のような筒上の通路の壁はFRPのようなもので構成されていた。
「どうやら先にきたようですね。あちらこちらに歪みが生じているし、かなり先で争ってい
るような感じがします。」
そう行って歩き始める若者の顔には、敵地に乗り込んでいると言う緊張感はまるでなく、な
じみの喫茶店にきたのかと言うような雰囲気さえ漂っていた。
「かなり大勢いるらしいの。最も、あの男なら無事なのは分かりきっているが。」
こちらも、大した事はないと言うように黄金毛をなびかせた。
「とにかく行ってみましょうか。」
輝くような笑顔が、そう言って滑るように歩きだした。
しばらくして、散歩でもしているように歩いている二人を、突然、ならず者風の族が取り囲
んだ。
誰一人としてまともな目をした奴はいなかった。
どうやら、何かに操られているような感じである。
ならず者達が、取り囲んだ若者に一斉に襲いかかった。
その刹那、一陣の風が吹き抜けた。
その風にとけ込むように若者の姿は消えてなくなった。
その風の行き着いたところで、輝くような声が鳴り響いた。
「どこにもいないと思ったら、こんなところにいたのか。道理で街で見かけないはずだ。」
まるで世間話でもするような口調に負けず劣らずのんびりした声が響いた。
「相変わらずのんびりしてるな」
まるでその声に押されたようにならず者達は道を開けた。
「相変わらず・・・やくざですね。」
周りのならず者達に意志があったなら思わずずっこけるようなせりふをさらりと言ってのけた。
もっとも酒場で会った男はちゃっかりずっこけたのだが・・・。
「そんな事よりこの状況を何とかしようとは思わないのか。」
苦笑しながら、若者はならず者達にむきなおり、突然叫んだ。
爆風でも浴びたかのように、彼らを取り囲んでいたならず者達が吹き飛んだ。
「相変わらずいい声してるな。」
この感心したような言葉は、若者の脇の豺である。
「ありがとうよ、豺さん」
そう答ながら男は奥に向かって歩き始めた。
「貴方の相棒は、どうしたんですか」
後を追うように、歩き始めた美貌の若者が、静かに尋ねた。
「年寄りに愛想をつかしてどこかへ行ったとか」
微笑む若者に、男は困った奴だとでも言いたそうに肩をすくめた。
「誰が年寄りだ、誰が。先行して様子を見に行っているだけだ。」
そう応えた銀色の髪の横に、猛禽類が現れた。
はやぶさである。
「このすぐ先が中枢部になっているようですが、特にこれと言った仕掛は感じられません。」
いかなる発生気管を有しているのか分からないが、上品な声であるのは確かだった。
その言葉を受けて若者は軽く尋ねた。
「何も仕掛けてこないのはどうした理由でしょうね。まさかさっきの変な兄ちゃん達で終わり
と言うわけじゃないでしょう。」
幼い微笑みを浮かべながら、若者はいかにも残念そうな表情を浮かべた。
「そんなわけがないだろうが・・・」
陽気な男が陽気に応えようとした、その刹那、世界が一変した。
彼らの目の前に、大海原が広がったのだ。
「どうやら、本命が出てきたようじゃが。ぎりぎりに出てくるところが、自信ありげ、じゃ
な。」
なんとも面度臭そうに、黄金の豺が言い放った。
どうやら、相手が彼ら全員に、海の幻影を与えているようである。
もう目の前が、集積回路である。
敵を中枢部にまで誘い込んでからの登場なのだ。
「とにかく、拝顔の栄を賜るとしょうか。どうせそのためにきたんだから・・・」
波の上を静かに歩を進めていた若者は、その言葉に、おもちゃを買ってもらう事が決まった
子供のように無邪気な笑顔を浮かべて答えた。
「何が出てくるのか楽しみですからね。まあ、あまり「血」が濃いとは思えない連中がこの
なかにいたんですから、後は何が出てきても驚かないですけどね。」
あっさりと言う若者を驚いたような顔で銀色の光が見やった。
「気づいたのか?あれを見ただけで・・・。予備知識のあった俺でさえ、はじめに見たとき
は信じられなかったのに。」
テストで満点をとって誉められた子供のように自慢気な笑みが幼い顔に浮かんだ。
「そんな事より、とっておきの登場ですよ。ほら、海が時化ってきた。」
若者がしなやかに水平線を指さすと、海は急にあれはじめ、水面に立つ侵入者達を津波がお
そった。
その幻影は異常なまでに強力で、彼らにさえも無効化する事が出来なかった。
「かなり強烈な空間支配力だな、取り込まれないようにするのが精一杯だが・・・。」
自らの周りに防御のための空間を作りだしながら銀髪の男が呟いた。
「何か引っかかる事でもあるんですか?」
男の呟きに答える若者は、何等防御壁も張らず、風景と同化していた。
「どうも、訓練された者の幻影じゃないような感じだな。これなら、相手の目を盗んで奥ま
で行けそうだ。無駄な力を使う事もないだろう。」
なおも荒れ狂う嵐の中で、それでも落ち着いて語る男の言葉に、幼い笑顔をが無邪気に案を出した。
「波に飲み込まれてみて、その隙に行けばいいでしょう。僕はここでこっちの相手をしていますよ。」
とうてい無邪気とは言えない提案に、銀色の光が、何かを感じ、賛成の意を表明した。
「ああ、そうしよう。」
男が言葉を言い終わるか言い終わらないかのうちに波が彼らを飲み込んだ。
何もなかったかのように静まり返った海原で、人影が揺らめいた。
少女のようである。
「今までの人より楽しめるかと思ったけど、たいした事なかったわね。」
柔らかな声が勝ち誇ったように静かに響き渡った、その刹那、大海原は大草原に突如として
変わった。
突然の出来事に、どう対処していいのか分からなくなった少女に、天使のような穏やかな声
が語り掛けた。
「水平線もいいですが、地平線の方が好きですね。」
その声に振り返り様、少女は新たな幻影を仕掛けようとした。
彼女が仕掛けようとした幻影は、形をなす前に消え去った。
さらなる幻影を仕掛けようとする少女を天使のように柔らかい声が遮った。
「無駄ですよ。君の幻影は、もう僕には意味をなさない。」
泣きそうに天使を見つめる少女の目に大草原の王者たる黄金の豺が映った。
「黄金の豺・・・。貴方の事知ってるわ、聞いたことあるもの。たくさんの人をやっつけて
きたんでしょう?私もやっつけに来たの?」
寂しそうに聞く少女に、若者はさらに寂しそうな笑顔で答えた。
「どうして、こんな事するの?」
少女は、目に涙を浮かべてその問に答えた。
「ここにしかいられないから・・・。」
Flying Dutchmanである少女を、何らかの力がこの空間に束縛し、さらに侵入者の排除を
強制しているのである。
その拘束を断ち切らない限り少女に自由はないのである。
しかし、その拘束力を断ち切れば少女は消えてなくなることになるだろう。
その拘束力が、少女をFlying Dutchmanとして生かしているのだから・・・。
そのことに気づき、戸惑う若者に少女は少し大人びた声で言った。
「お兄ちゃん、このお姉ちゃんを知ってる?」
そう言って少女の小さな手が宙を指すと、そこには若者にとって忘れえぬ黒髪が映ってた。
「・・・あの娘に会ったのか・・・」
震えを抑えるように若者はようやくそれだけを口にした。
「うん。お姉ちゃんとは同じところにいたの、へんな機械がいっぱいあるところ。いつも一
緒に遊んでくれたの。」
苦しみと哀しみの入り交じった表情で天使のような若者は、ただの少年の顔であの娘の行方を尋ねた。
幻影の少女が口にしたのは、月の女神の名だった。
それは若者が忘れたはずの故郷の名でもあった。
凍りつくような若者に、背伸びするように少女は言った。
「あたし、もう行くわ。あたしを自由にしてくれるんでしょう。貴方ならきっとそうしてく
れるって、お姉ちゃんが言ってたよ。」
若者は、微笑む少女に、静かに天使の微笑みで硝子細工のような手を差し伸べた。
その刹那、少女の体はエメラルド色に光輝いた。
その光のなかで、少女の唇が、微かに言葉を綴った。
「お姉ちゃんが待ってるよ・・・」
精一杯に微笑む少女の笑顔が若者の胸にいつまでも消えることはなかった。
街が再び人工の夜を迎える頃、二人の男は同じカウンターで杯を進めていた。
「結局、シンクロ・プラグの実験の犠牲者だったんだな。あの女の子は・・・」
銀色の光を放ちながら男は、あいも変わらずローヤルを傾けていた。
幼い表情が、そんな男に答えを返した。
「ええ、あのならず者達も、その機械に操られていたんでしょう。機械を埋め込む事により
人間の自由意志を奪い、電子網での支配率を高める。そのうえ、機能を停止した肉体を用いて
さえ、その心を束縛できる・・・。」
若者の突き刺すような語調に、何かを感じながら、静かな口調で銀髪の男が言葉を受け継いだ。
「ダイバーですらない人間でさえ、あれだけの事が出来るんだ。もし正規に訓練されたダイ
バーか、それに準ずる精神を持った人間がそれを使えば、電子網、いや世界のあり方が大きく変
わる事になるな。しかも、ひとたび埋め込まれたプラグは神経系に同化して取り除く事は不
可能。これが実用化されたらとんでもない事になる。」
一息ついてあおったグラスをテーブルに置きながら、銀髪の男は静かに口を開いた。
「これからどうする?俺は一度戻って報告しなけりゃならんしどうだ、この件を引き続き調
査してくれないか?」
幼い表情がグラスを傾けながら、男の心遣いに静かにうなずいた。
「まあ、必要経費ぐらいはでるように、うちの偉いさんには俺の方から言っとくよ。まあ無
理はするなよ。」
若者の肩を軽く叩いて、銀色の髪は酒場を後にした。
残された若者は、一つの開いた席に誰かの影を重ねながら、緩やかにグラスを傾けた。
その席の上を永遠に近い一瞬が通り過ぎた頃、グラスの氷が軽く音を奏でた。 その音に促
されたかのように、微かに若者の唇が揺れた。
「忘れたはずの・・・故郷で・・・忘れられない・・・黒髪に・・・会う」
それは言葉遊びのようにグラスに落とした未来の出来事だった。
<魔王の住む街・第1部・第1話【少女】終わり>
・第2話【幕間】に続く