・第2話【幕間】

第3話【堕天使】

 アルテミス    
 地球の見える位置にある月面の都市は旧時代の都市の上にある月面都市群である。
 そこに同じく月の女神の名を持つ街がある。
 その街はアルテミスが作られたときに、はじめに人が住み着いた街であり、コロニー開拓時
代に、宇宙での生活を夢見、あるいは地球での生活に絶望したものが集った場所である。
 しかし、その頃の宇宙での生活が楽であるはずもなかった。
 多くの者が、その歴史の中で苦しみ、哀しみ、憎み、そして、夢を見た。
 人類史上最大のフロンティアである宇宙への進出の舞台となったこの街には、地球より少し
多くの希望と、遥かに多くの哀しみを抱え込んでいた。
 そうして夢に倒れていった人々が血を吐き、涙を流しながらもう独りの女神の狂気の名をこ
の街に刻み込んだ。

 ルナ

その古き街の片隅で、悲喜劇の幕があがった。

 きらびやかな街のネオンが若者を鮮やかに彩っていた。
 まだ幼さの残る若者はその似つかわしくない街を悠然と横切っていた。
 明らかによそもの風の若者は、まるで毎日通っている通学路でも歩くような確かな足どりで
萎びた店にとけ込んでいった・・・。

 カウンターしかないその店は決して広いとはいえないが感じの良い店だった。
初老のマスターが、ふと、入ってきた若者をその目に捕らえて動きを留めた。
「懲りもせず、まだ生きてる見たいですね、マスター・・・」
 若者は、とんでもない台詞を吐きながら少年の笑顔でカウンターに腰掛けた。 少しの間、
時間が止まったような、昔に戻ったような空気が流れていった。
「この悪ガキ、何しに来やがった。」
 こちらも真っ当な挨拶とはいえない言葉でマスターがやり返した。
「悪ガキはないでしょう。これでも社会人なんですよ。立派かどうかは別にしても・・・。こ
の街に来たのも仕事ですよ。でなければわざわざこんな綺麗だとはお世辞にも言えないような
店に飲みにきません。」
 若者がさらりと切り替えしたとき、いつの間に用意したのかエメラルドグリーンの美しいカ
クテルが差し出された。
「Fallen Angel・・・ですか」
 若者の顔に、一瞬自嘲するような微笑みが浮かんで、消えた。
「そうさFallen Angelだ。」
 見て見ぬフリで老人は答えた。
 若者はまるで薬を飲み込むようにグラスをあおった。
 グラスを代えてブラックジャグを二つばかり空けた若者が尋ねた。
「あの娘は・・・?」
「さぁな、おまえがこの街を出てからはここにも顔を出してはいないな。」
 わずかな時間、天井のファンの風だけが氷の上を流れていった。
「・・・そうですか。」
そういった若者のグラスの氷を代えるマスターの耳にドアのきしんだ音が飛び込んできた。
 その音と懐かしい空気に振り向いた若者の視野に、あの娘が立っていた。
それだけは変わらぬ黒髪で・・・
「いい・・・女になったんだな。」
この若者を動揺させえるものは他にはなかった事を、マスターは思い出していた・・・。

 街が夜の静けさを取り戻そうとしていたのと対象的に若者のグラスは小刻みに揺れていた。
 そんなグラスに黒髪を映して女が微笑んだ。
「相変わらずね。私といるとそんなに緊張するの?とって食べやしないわよ。」
 そういって緑の影を落とすグラスを手に、髪と同じ配色の瞳に若者を映した。
「何を言っていいかわからないだけですよ。」
 とは、口に出しては言わず女の手のグラスに目を落としてから
「もう一杯・・・」
 と、だけ口にした。
 そうして再びファンの風だけが通り過ぎた後、
「マスターなら知ってると思ってきたのよ。<八咫鏡(やたのかがみ)の賢者>な
ら・・・。」
 仰ぐような目で老人は首を傾けた。
「昔の事じゃよ。それより何を知りたいんじゃ?」
「さすがに話が早いわね。<金色(こんじき)の豺>の事が知りたいの。」
 何杯目かのグラスの氷が穏やかに崩れて、小気味良い音をたてた。
「<金色の豺>・・・か。いったい何を知りたいんじゃね。」
 グラスの音を確かめるようにマスターが答えた。
「出来れば居場所を、でなければせめて連絡方法を知りたいのよ。」
「連絡してどうするんですか?」
 グラスの氷を見つめながら若者がうつろな瞳で尋ねた。
 どこか悲しげな表情がファンの風に微かに髪を揺らして言葉を綴った。
「仕事を・・・仕事を依頼したいのよ。私はそのためにこの街に来たのよ。この街に彼が来て
るって言う情報を聞いてね。でなければ、こんなお世辞にも綺麗とは言えないところへなんか
飲みに来ないわ。」
その台詞を聞いてマスターはそのぼろカウンターが壊れるような豪快な笑い声を響かせた。
「よっぽどこの店はぼろなのかね、ついさっきもほとんど同じ台詞を吐いた客がいたよ。」
 そのもの言いに、黒髪が尋ねた。
「誰よ?」
 脇で笑いをかみ殺す若者を睨みつけて
「何がおかしいのよ」
 それでもまだ笑いを堪えながら若者は受け流した。
「いや、別に・・・。」
「感じ悪いわね。誰よそれ。」
 そう尋ねる黒髪に、急に引き締まった声で老人は答えた。
「お捜しの人物じゃよ。」
 一瞬の空白の後、長い黒髪を隣の頬ですべらせて詰問した。
「ここに来ていたの?どうしてこんなところに・・・。」
「こんなところはないじゃろう。昔馴染みじゃからのう。」
「うそ・・・。」
「嘘なものか。もっともおまえさんと同じ位久しぶりに顔を見せたんじゃがな。」
 そんなやりとりを聞きながら何杯目かのグラスを空けた若者が呟いた。
「会わせてやろうか、彼に・・・。」 
 陰りのある表情に答えたのはマスターだった。
「いいのか・・・?」
 驚いた表情をよそ目に若者が口にしたのは別の事だった。
「彼を入れてもいいかい?」
 黒髪は少し見やってから、マスターは言葉を返した。
「おまえがよければ、な。」
マスターの影が揺れるのとほぼ同時にドアのきしむ音がした。
「なんかようか?」
 そう言って入ってきたのは、あろうことか豺だった、それも黄金の体毛をもつ・・・。
「あんたに会いたかったそうですよ。こちらの女性が・・・。」
 振り向きもせず若者が答えた。
「ど、どういうことなのこれは?」
 揺れる黒髪とは対象的に哀しみの入り交じった落ち着きが答えた。
「どうと言われても、彼が貴方が会いたがっていた<金色の豺>ですよ。」
 まだ事態が把握できないのかな?とでもいいたげに首をかしげて
「彼がお探しの豺ですよ。」
「でも・・・。」
 悲しげに、それでいてうれしそうにも見える表情で若者は呟いた。
「狼少年ですね。」
 認めたくないものを認めようとはしないふたり。
 マスターが重々しい表情で最後の審判を告げた。
「あんたの目の前にいる男がそこの豺のパートナーじゃよ。」
 黒髪を凍り付かせて女の唇がやっとの事で音を紡ぎ出した。
「そう・・・。」
 悲しい台詞を遮るように、黒衣の若者は一切の感情を断ち切った瞳で言い放った。
「仕事の話をしましょうか?お嬢さん。」

 風に舞う髪が告げた依頼内容は、種類としてはよくある内容の仕事だった。
 軍事産業の最大手であり統治者の兵器を一手に引き受けているある企業のメイン・コン
ピュータに侵入してほしいというものだった。
そしてその企業で進めているあるプランのデータを消去してほしいというのだ。
 プランの内容については明かされなかったが、一つの条件が付け足されていた。その条件と
は、そのプランに関わる新型のサポートマシンが実験的に配備されるので、それを破壊して
ほしいというものだった。
 サポートマシンが配備されるのは、黒髪に出会った翌週の金曜日
 水辺が緑に染まる月遊蝶花の日
なのだという。

 運命の前夜、あのバーから帰ってきた若者に豺が語り掛けた。
「本当にやるのか?本当に・・・」
 心配そうに話す相棒に、若者は悲しげな微笑みを浮かべて短く答えた。
「ええ・・・」
 その答に少し考えてから、豺が再び問いかけた。
「あの子はおまえにとってはあらゆる<理由>だ。その手で自らの存在理由さえ消し去るつも
りか?こんな人類のためになぜおまえが、そこまでしなくちゃならん!?」
 安ホテルらしいエアコンが音をたてて空気をかき乱した。
 そうして先ほどと変わらぬ微笑みが凍りつくような声で言葉を刻んだ。
「そんなものは僕にもどうでもいいですよ。ただ、僕自身のためにやるんです。誰のためでも
なく・・・。誰にもこの仕事は任せられません。僕に過去がある限り、あの娘に現在がある限
り・・・。」
まるで凍りついたかのような空白が流れ去った後、顔を背けて窓を開けた若者の目に青い月と
対象的な紅い月が輝いていた。
 その夜の月の女神はルナだったのだろう、おそらくは・・・。

 何一つ確かなもののない世界を2つの影は滑るような足どりで進んでいた。
 見渡す限りのその空間はその電子網の情報処理能力の膨大さを示しているのである。
 2つの影が立ち止まった瞬間、突然の嵐が空間を埋め尽くした。
 会社に雇われた迎撃者たちである。
 どうやら彼らがここに来る事は知られていたようだった。
 迎撃者たちが作り出した幻影が2つの影を完全に覆い尽くした。
「やったぞ!<金色の豺>をやっつけたぞ。」
 そういって駆け寄った迎撃者たちは、信じられない光景を目にした。
 そこに倒れているのは紛れもなく自分自身だったのである。
「誰を倒したんですか?」
 風が奏でるような声を耳にしてから彼らが振り返ると、そこには黄金の豺を引き連れた微笑
みの天使が立っていた。
「今回はお前らに用はない。家にかえって昼寝でもしておれ。」
 不適に宣言する豺が不適な笑みを浮かべた刹那、彼らの体は霧散した。
「どうやら、隠蔽装置を使って潜んでいたようじゃな。仕掛けてくるまでわからんかった。ど
うする数は膨大じゃぞ。」
 それほど困った様子でもなく豺は若者に尋ねた。
 若者は冷ややかな表情で言い放った。
「いちいち相手をしている暇はないでしょう。全ての電子網とここを切り放して孤立させま
す。」
「いわれんでももうやっとるよ。しかし、ここの奴らは馬鹿に値の張りそうな機械を使っとる
な。まあ、いくら金を掛けてもわしには及んがな。」
 嘯く豺の額をしなやかな指ではじきながらも若者は全神経を張りつめていた。
「どうやら、とっておきの登場らしいのう。」
 黄金の鬣をなびかせながら四肢に力を込めて豺が言った。
 その刹那、彼らを包む世界が異変を告げた。
 突然、荒れた大地が現れたのだ。
 その大地を打ち破って溶岩が吹き出してきた。
 溶岩はまるで龍のように大空へ伸び彼らめがけて襲いかかった。
 大地が避け、彼らの身体が宙に舞った。
「なんて強烈な幻影じゃ。これはわしにも振り切れんぞ。」
 慌てる豺とは対象的に落ち着いた表情で別の人に語り掛けるように呟いた。
「あいかわらず・・・」
 そう言って顔をあげた若者に灼熱の龍が襲いかかった。
 灼熱の炎が若者を包み込んだ。
 その高温の中で若者はあろうことか悠然と炎の化身に手を差し伸べた。
 そのしなやかな指先が、まるで慈しむように龍をひと撫ですると灼熱のそれは氷像と化して
砕け散ってしまった。
 その直後、間髪を入れずに新たな幻影が彼らを襲った。
燃え盛る隕石がまるで嵐のように彼らを覆い尽くした。
 再び彼らは炎の渦に取り込まれた。
 この空間での支配率は敵の方が上手なようである。
「もう少し楽しんでいたいのですが、そういうわけにもいかないでしょう。この幻影を打ち
破ったら、D因子を解放して下さい。」
 このごに及んで丁寧な口調で豺に命じて、まるで天使のように滑らかな動きで天をつかみ、
何もない空間からひと振りの剣を取り出した。
 その様子を見やる豺が鬣を炎に揺らして尋ねた。
「ひとりで大丈夫か?」
 天使のような頬を紅炎に染めながら血を吐くように言い放った。
「ひとりがいいんです。」
 そういって、かざした剣が世界を光で満たした。
 その刹那、黄金の豺の染み通るような遠吠えが響き渡った。

 世界が乳白色に染まっていた。
 一見、霧に見えるD因子が空間を満たしているのである。
 D因子とは幻影が広範囲に渡るのを防ぐもので、一種の抵抗である。
 このD因子を扱えるものは極めて限られており、サポートマシンにも多大な負荷がかかるた
めサポートマシンはそれ以外の一切の行動が取れなくなるのである。故に先ほどの「大丈夫
か?」の台詞があったのだ。

 その霧の世界の中で微かに揺れるものがあった。
 しなやかな黒髪をまとった影である。先ほどからの幻影はそこから現れているようだった。
 その長い髪をたなびかせた影は重い足どりで若者の前に現れた。
「ようこそ、と言うべきかしら。」
 まだ幼いとも言える微笑みを張り付けた侵入者に、黒髪の主は妖艶な微笑みを投げかけた。
「お招きに預かり光栄です、お嬢さん。」
 やるせない表情で幼さの主は切り返した。
 驚きもしない侵入者に微かに黒髪がざわめいた。
「知っていたのね、私のこと。」
 姉が弟をたしなめるような口調の問いかけに、若者は苦笑いで答えた。
「いいえ、貴方が幻影を仕掛けるまではわからなかったですよ。」
 まるで世間話でもするような口調で言葉を続けた。
「幻影というのは仕掛けた本人の心が現れるんですよ。あの幻影を感じてすぐに貴方だとわか
りました。」
 わずかに揺れる髪が何かを語り、慈しむような微笑みがそれに答えた。
 二人は互いの役を演じていた、それが嘘だと知りながら・・・。
 そんな声にならない想いが交差して女の口から緩やかに言葉が流れた。
「シンクロ・プラグを知ってる?」
 その質問を、恐れていたかのように震える表情が言葉を綴った。
「シンクロ・プラグ。人間の脳に直接埋め込んで使用する機械。そうする事により電子網での
支配率を高める試みだと、以前アクセスしたときに・・・。」
 若者の顔に誰かを思い出したかのような表情がよぎった。
 その表情が消えた頃、少し乱れた黒髪をなびかせながら、哀しい瞳が血を吐くように一気に
言葉を綴った。
「その通りよ。しかもそれは人間を外部から拘束する事も可能にしたのよ。つまり人間が機械
に取り込まれるの・・・。それでも人間なのだと言えるのかしら?それでも生きていると言え
るのかしら? わずかな時間だけしか自分でいられない、そんな状況で・・・。
 だから・・・貴方に依頼したの、シンクロ・プラグを破壊して・・・と。」
 永劫にも似た一瞬の後、ようやく若者が震える声を絞り出した。
「それを・・・それを僕にやれというのか?・・・この、僕に・・・。」
 なぜだか確認の響きの感じられる、そんな言葉だった。
「あなたにはわかっているのでしょう?一度プラグに支配されたてしまった人間を解放してく
れるのは<死>以外にはないことを・・・。」
 若者にもそれがよくわかっていた。
 一度体内に入ったそれは神経と有機的に結合して肉体の一部と化すのだ。
「私が死ねば、私に埋め込まれた現存する唯一の試作品も活動を止めるわ。
 そして、貴方がこのプランに関するデータを抹消してくれるのでしょう?
 そうなったら、しばらくの間はいなくなるわ・・・私のように機械の一部として生きなけれ
ばならない人間は・・・。」
 世の理不尽を恨むかのような目で、若者は風に舞う髪を見つめて言った。
「そのために・・・。」
 哀しみが凝縮したかのような問いかけに女は別の言葉を口にした。
「良かった、あの綺麗な豺さんの相棒が貴方で・・・。」
 揺れる黒髪が女の心を表しているかのようだった。
「さあ、早くして。そう長くはD因子を保てないはずよ。」
 女が優しく語った刹那、白い世界が崩壊を始めた。
 D因子が維持できなくなってきている証だった。
「早く!D因子がなくなれば私は意識を保てなくなるわ。私が私でいる間に、早く・・・。」
 激しく揺れる黒髪を見つめて若者は剣を手にした。
 それを見た黒髪が優しく揺れたとき決意の影が幼い表情を横切った。
 そうして、世界は哀しみのエメラルドグリーンに輝いた。

 世界が静寂を取り戻したとき、揺れる紅い唇が悲しい言葉を奏でた。
「ごめんなさい。つらい想いをさせてしまって・・・。でも、最後に貴方に会えて本当に良
かったわ。」
 薄れゆく黒髪を巻き上げる風に、若者は祈るように言葉をちりばめた。
「ひとつだけ・・・聞かせて・・・。ただの一度でも・・・想ってくれましたか?・・・僕の
ことを・・・。」
 若者の言葉に、あの娘はただ、とても悲しげな、優しい微笑みを浮かべただけだった。
 そうして初恋が消え去った。変わらぬ黒髪だけを若者の心に残して・・・。


 きらびやかな街のネオンが若者を原色に彩っていた。
 まだ、幼さの残る若者の影が、この街になじんでいるようだった。

  泣いているかのようにさえ見えた。
  ここは深く傷負った者が入る街。
  寂しい魔王の住む街。

 萎びたカウンターバーに幼い影が溶け込んでいった。


 悲しげな瞳にマスターは緑のグラスを差し出した。
 凍りついた時間の中で、冷えた席に天井のファンの風が流れていった。
「Fallen Angel・・・」
 囁くよりも小さな声で、若者はカクテルの名を風に流した・・・。





<魔王の住む街・第1部終わり>