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Title : The Winged
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翼あるもの

1:「距離」−人を隔てるものとしての−

 ネットワークのもたらす世界は位相空間である。同じ「集合」=「空間」(数学的には同義。)に属するか否かが問題になる。そのために物理的な距離が「近さ−遠さ」を生み出すのではなく、「近さ−遠さ」という感覚が距離を発生させるのである。
 私は以前、500km程離れた人と電子メールで「文通」をしていた。もっとも、こちらの考えをまとめて送り、それに対してコメントや意見が帰ってくるのだから「議論」と言うべきであったかも知れない。相手が電子メールを受け取れない環境に移ってしまったので「文通」は終わることになったが、その期間中はそばにいる誰よりもその相手を身近に感じていた。私はふと思った、

「この感覚は何なのだろう?」と。

 「近さ」の概念は必ずしも物理的な距離で与えられるものではない。
 「去る者、日に疎し」と言う諺があるが、これは必ずしも真実ではなくなってきている。物理的な距離がある程度心理的な距離を規定することは事実である。しかし完全に規定すると断言できたのは19世紀までであろう。これだけ交通手段と通信手段が発達した現在にあってはこの関係は逆になりつつある。すなわち心理的な距離が物理的な距離を規定する。例えば、どんなに物理的に隔てられていても心理的な距離が近ければ頻繁に連絡を取り合うだろうし、機会を作ってまで会おうとするのではないだろうか? それとは逆に机が隣であろうとも業務連絡以上の会話をしないということはよくあることである。
 物理的な距離でもって忘却の彼方に追いやられるような人は自分にとって大切な人間ではなかったということだ。大切な人間であったなら、物理的にどれだけ離れていようと、いや、それだからこそ一層鮮明に、身近に感じることになる−距離は記憶を純化する−のだ。
 件の相手とは電子メールによる「文通」が出来なくなってから、原始メール(primitive mail;従来のメール、すなわち郵便のこと)でやりとりをするようになった。原始メールは距離を克服するための工夫ではあるが、物理的な距離に比例して到着する時間が増大する。やはり距離空間の産物である。だから、もしその相手と最初から原始メールでやりとりをしていたならば、妙に丁寧でどこかよそよそしい関係のままであったであろう。電子メールであれ、原始メールであれ、伝えられる情報は所詮は同じTEXTでしかないのに、自分が画面に向かっているように相手も同じように向かっているという感覚がほんの少し働くだけでその差は非常に大きいものとなっている。
 今後通信がどのようなインターフェースを持つようになるか予見することは出来ないが、なお一層、人の間の距離の消滅を手助けする大いなる道具として重宝されることであろう。

2:「時間」−現実感の流れとしての−

 いつでも望むときに鮮明なイメージが浮かぶのであれば、それが現在のことであるのか、過去のことであるのかということはそれほど問題とはならない。鮮明に自分の心を占めていると言う状態−Reality(現実感)−が重要なのではないだろうか。
 時間とは現実感の流れである。時計の針が回転することを指すのではない。自分がこうだと思っている状態が変化したことに気付くことで初めて人は時間が経過したことを認識するのである。逆にその変化に気付かなければ、いつまでも時間は経過しないことになる。すなわち人間を離れた客観的な時間の流れというものは存在しないと言うことである。通常「時間」と呼ばれているものは時計の針が回転することに基づく約束事に過ぎないのだ。
 ネットワークは「時間と空間の制約を取り払う」とよく言われるが、現代社会の行動の基本原則の1つである同時性という制約を取り払っただけであって、時間を超越したわけではない。双方向かつリアルタイムの通信は便利ではあるのだが、実はコミュニケーションをとる双方の時間を拘束しているのだ。「パソコン通信によって情報のやりとりが高速化する」とだけ捉えてしまったならば、それは現代社会の要求する迅速性(効率と言ってもよいが)に応えただけであって、生活のありかたに変化を与えるものではない。受話器を使わない電話が出現したところで、すでに電話を持ってしまっている私たちにとってはそれほど劇的なこととは言えないのである。もちろん顔を見せてのコミュニケーションや、電話等によるリアルタイムのやりとりの重要性を否定するものではないが、それと同等のものをわざわざ仮想的に実現する(というのも実に奇妙な表現ではあるが)必要はないように思われる。電話を超えるコミュニケーション濃度を得られるだけの技術が開発されない限り、ユーザーはまどろっこしいインターフェースに付き合わされ続けることとなるであろう。

3:翼あるもの

 最近はコンピュータネットワークと言う言葉が氾濫しているため、コンピュータ資源のありようは2次元であるように受け取られることであろう。確かに物理的にはそうである。しかしそれはコンピュータの画面から目を離してネットワークの一覧表か地図を眺めたときの意識であって、現実に画面に向かっている限りはやはり何らかの回線を通して最初のアクセスポイントにたどり着かねばならない。そしてそこからまた別の回線を通って別のポイントへ・・・。この繰り返しである。現象の記述としてはこれでは不正確である。そのポイントの方からデータが送られてくるのであって、ユーザーが世界を駆けめぐっているわけではない。回「線」とはまさに1次元的な代物であるし、アクセス先はIP Addressというただ1種類の座標でもって表現されている。このことはコンピュータネットワークが論理的には1次元でしかないことを物語っている。しかし現在の(劣悪とは言わないまでも)さほど優れているとも言えないインターフェースのもとでもコンピューター資源のネットワークを渡り歩くことを楽しむ人たち−いわゆるNet Surfers−が多数存在することも事実である。

 この差はいったい何なのか?

 おそらくそれは想像力の差であろう。本稿で用いた表現で言えば「距離」の感覚の有無である。ただ画面に流れてくる情報をそれ以上のものともそれ以下のものとも考えずただ受け取るだけの人種にとっては、いかなるインターフェースも魅力的なものとはなり得ない。しかしその画面の向こうにはその情報を提供してくれた人がいて、ここで自分がそれに接していることを喜んでいるのかも知れないと考えた瞬間、その情報発信源との距離(心理的な距離)は一挙に縮まる。そしてそれは他の発信源とは違った存在となる。その結果は心理的地図の上に新たにプロットされる。この状況こそがユーザーにとってのネットワークなのである。ネットワークをネットワークたらしめるのはあくまでユーザーの想像力である。

 もう少し詳しく考えてみよう。
 ドゥルーズはフーコーにならって近代社会を「規律社会」と名付けた。規律社会とは「監禁装置」を社会の隅々にわたって配置する社会のことである。近代社会の諸個人は生涯のさまざまな局面にわたって近代的組織(という名の監禁装置)に属している。決められた時間に決められた場所に拘束され集合的に行動することしか許されていない。このように強制的に人間の生活を来ていくのが近代であった。
 だが、フーコーはこのような監禁装置が受動的な人間を生み出すとは考えていなかった。監禁装置を生み出すのは主体的な人間なのである。「パノプティコン」におびえるあまり、いつのまにか監視者の視線を内面化してしまう。監禁装置と監視者は、諸個人の自律的努力を一定の方向へ向かわせるための環境造りを行っているにすぎない。この意味で近代的監禁装置が作り出す諸個人は誰に命令されたわけでもなく自主的に服従する「主体」を生み出す。
 だがドゥルーズは、現代は「あらゆる監禁の環境に聞きが蔓延した」時代であり、管理社会と呼ぶべき社会に徐々に向かっていると言う。この社会は規律化され鋳型にはめられた「主体」とその集合体としての組織によって秩序が確保されるような社会ではない。まずそのような「主体」は必要とされていず、「刻一刻と変貌を繰り返す自己=変形の鋳造作業」が行える人間である。同時にこのような人間の存在が可能となるためには「監禁装置」の役割も変化しなければならない。諸個人を「主体」として「監禁装置」に縛りつけるのではなくて、自由に行き来することを認めなければならない。
 近代とは人間が人間を支配する時代なのではない。主体なき監禁装置化(無人称的管理)が行き渡る時代なのである。

 規律社会の抵抗スタイルは「もぐら」の戦略である。抑圧的な上部の構造物に対して「地下」で隠然と抵抗することである。「インフォーマル・グループ」とはいわば「もぐらの巣穴」である。目的達成のために規定された非人間的な組織に対する「地下組織」である。管理社会への抵抗戦略としては「へび」の戦略が考えられる。
 「へび」とは「もぐら」のように地下にもぐって行動するのではなく、鳥のように全体をふ瞰するのでもなく、ひたすら地面を地形に沿って這回る存在である。規定された関係をずらすこと。いわばこれは《地を這うもの》の戦略である。

 しかし今後展開されるであろう高度情報化社会において必要なのは世界へはばたく「翼」−ひろがりを想像する力−であり、そこから得たものを自らの内部で消化し、何かを創造していく力なのである。このような力を持った人間−すなわち《翼あるもの》−が多数出現するようになって初めて、そのような社会は有効に機能するようになるのではないだろうか。

4:情報技術−人を結びつけるものとしての−

 高度情報化社会の到来・コンピュータネットワークの発達は必ずしも人々に幸福をもたらすわけではない。知ることは必ずしも楽しみではないし、無知であることが幸福であることと言えるのかもしれない。この状況を見抜いていたのか、パスカル(1623−1682)はその著書『パンセ』で次のように警告している。

多すぎる酒、少なすぎる酒。彼に少しも与えずにいたまえ、彼は真を知ることはできない。与えすぎてみたまえ、おなじことだ。(断章71)

 確かに触れる情報量の多さという点では豊かになってきている。例えば100年前の人々が一生かかって触れる量をわずか1日で手にすることは可能であろう。だからといって彼らより私たちの方が情報化が進んだと言えるのだろうか?過剰な情報の大海で一滴の水も口に出来ずに渇死寸前というのが実状ではないのか?
 いかに抱える情報量が多くとも、それを制御する智慧を持たない限り情報から自由になることはできない。未だに情報を抱え込んでいることを自慢にする人が見受けられるが、はっきり言って無駄な努力である。なぜなら記憶の量と検索の速度では、人間はコンピューターにはかなわないのだから。
 この情報を制御する智慧を持つという点が単なる Net Surfer と《翼あるもの》とを区別する。そしてまさにこの点において《翼あるもの》は智慧を持たない《地を這うもの》を追いつめ、ついばむことができる。しかしそれは許されることなのか?

 情報社会とは峻厳な弱肉強食の社会であるべきなのか?

 この問いに対しても私は No と言おう。
 人よりも遠くを見ることのできる者は、その能力をそれが果たせないより多くの人々のためにこそ用いるべきである。一時期は先進的で積極的なユーザーと、何が起こっているのか皆目見当もつかない人々とに分かれることになろう。《翼あるもの》はその翼でもって《地を這うもの》のところに降り立ち、共に飛び立てるよう力を貸してあげることが必要なのではないだろうか。そうして新たに生まれた《翼あるもの》はさらにべつの《地を這うもの》のところに行けばよい。
 情報技術は人を区別するために生まれたのではない。人を結びつけるために生まれたのだ−私はそう信じている。

Computers are born to be wired !

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Updated : 1996/04/30