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Title : Terrorist is there. (2)
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Contemporary Files #20050613
テロリストはどこにいるか(2)
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 通常、「テロ」というと、

…とみなされているように思うが、最近は、特定の目的のために特定の個人を始末するという「スマート」(…と言うイヤな言い方をすることがある)な方法よりも、無差別テロが世界的にも横行しているように思う。まあ、特定の個人対象のテロ(暗殺)がテロだとわかるか、という問題もあるが。

 上に挙げた4つの要素が成立するのは、要するに、「手段としてのテロ」だ。何か成し遂げたい目的があって(その目的が万人に理解・共感されるものであるかどうかは別として)、その実現のために採られるテロであるのなら、テロ以外の方法でそれを実現できる道筋をつけることでテロを停止させることができる(少なくともその可能性が高い)。
 が、自己目的化したテロは、その停止が困難だ。テロを停止させる契機が見当たらないからだ。実はこの手の行為は、「再発防止」なんてのは、その根がどこにあるかわからないのだから。

 最近、私は、テロの定義としては、3番目の後半だけで、すなわち、「無差別な殺傷を省みない破壊行為」で十分なのではないかと思い始めている。

☆ ☆ ☆

 先週末に、山口県光市の高校の男子生徒が、隣のクラスの教室に手製の爆発物を投げ入れ、多数の負傷者を出した事件が発生した。かなりの人数が病院に搬送されたものの、その後の続報によれば、致命傷を負った生徒さんもいなかったようで、その点に関してはよかった、と言うべきだろう。

 しかし、どうもひっかかることがある。
 この事件、どう扱うべきか世の中で困ってるという気がする。
 そのうち、「何が高校生に爆薬を投げさせたか」とか「いまどきの高校生の心の奥に潜む闇」みたいな扱い方をされるようになるんだろうなぁ。
 「再発防止」なんてことしか今のところ言えないんだろうけど、そのためには、「生徒とのコミュニケーションの充実」なんてことよりも「登校時の徹底した持ち物検査」が即効で利く防止策だ。もう少し厳しく考えるなら、授業中の行動もチェックを入れる必要があるだろう。何しろ、化学実験室にある薬剤をいくつか組み合わせたら、それなりの爆発力(もしくは単純に火力)を出せる、急激な反応を起こすことなんて可能だからだ。
 高校生程度でそんな、なんていうことはない。
 だって、高校の化学で習った範囲の知識だけで、ダイナマイトの基本的成分であるニトログリセリン(もちろん純度は問題だけど)は生成できるし、そんなことしなくてもナトリウムとかマグネシウムだけでも、そこそこの衝撃は起こせるからだ。
 これが合衆国だと、火薬詰めたようなものじゃなくて、コロンバイン高校みたいに銃乱射になったんだろうか。

 この事件は、一高校生が思いつめて学校で暴れた(ただしその「暴れ方」が特殊だった)だけ、という程度のものなのだろうか。
 もしこれが学校の教室内で行われたのではなくて、都会の雑踏や何らかの宗教施設や政府関係施設内部、または公的交通機関の中で行われたら、どういう反応になっただろうか。それはテロと呼ばれるではないだろうか?

☆ ☆ ☆

 前号に引き続いて今号を読んだ人には、私が何でもかんでも「テロ」と呼びたがっているとでも思えてしまうかも知れない。

 私は、以前 Eyes のコーナーで書いた「殺すこともヒューマニズムである。」で引用した須賀原本部長からの「挑戦」に明確な反論を出せないでいる。しかし、私個人について言えば、今回の山口県の高校の事件にしても、最近頻発している置石事件にしても、犯人の「心の闇」がどのように形成されたかどうかなんてことよりも、そのような破壊行為(と敢えて言おう)そのものを許すべきではないという断固とした立場−はっきり言えば、個人の「心の闇」への共感よりも社会生活の平穏が優先されるべきだと言う立場−に傾きつつあるように思う。もちろん、「心の闇」への共感が不要だなどと言うつもりはない。犯人が「闇」に追いやられた遠因が、社会の病理的な部分にあることもあるだろう。それはそれで対処していかねばならないのも実状だ。しかし、だからと言って、心の闇を抱えた人間の鬱屈を晴らすために客観的には無関係な人々を(犯人の主観からは重大な関係者なのかも知れないが)危険にさらすことは許してはならないと思う。

 要するに、「無差別な殺傷を省みない破壊行為者」は、その思想信条がいかなるものであれ(固定の思想信条がなく、自己目的化した行為であったとしても)、それはその行為自体に準拠して「テロリスト」と呼ぶべきであり、「ちょっとしたいたずら」だと言おうが「むしゃくしゃして」だと言おうが「酔っ払って」と言おうが、相応の扱いをすべきだと思う。「殺意の有無」を確認なんてしたら、こんなに情報が氾濫している社会では、「『殺すつもりはなかった』と主張したほうがいい」ってことぐらい知れ渡っている。それで「過失致傷」とか「過失致死」なんかで片付けられたら、たまったもんじゃない。


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Updated : 2005/06/13