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Title : Watch out!
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Contemporary Files #20050508
危険はどこに潜んでいるのか
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 JR尼崎・列車脱線事故から1週間経つ。宝塚線(福知山線)は使わないものの、JR尼崎駅はクライアントへの最寄り駅ということもあってよく行くことがある。しかも「9:30に改札集合→10:00に客先」というパターンで打ち合わせをすることが多く、その打ち合わせをその日に行っていたら、プロジェクトのメンバーの1人はかなりの確率で巻き込まれていた危険性があったということもあって、かなりリアルにこのニュースを受け止めていた。実はその日のその時刻には新幹線に乗っていて、最初は妻からのメールで知っただけで、しかも「尼崎で大きな脱線事故があったらしい」とだけあったので、普段よく乗る神戸線(大阪と神戸を結ぶ線)での事故だと思ったくらいだ。
 東京についてもその話題ばかりであったが、やはり生活基盤が京阪神にない人には「遠いところで起こった事件のひとつ」に過ぎないのだろう。…とは言うものの、関西在住の者にとって、2000年に起きた日比谷線での事故をそれほどリアルに感じていないことと大差がないのかも知れない。
 「自分がそこに乗り合わせたかも知れない」という感覚・想像力が働くところでないとそのリアルさに差があっても仕方がないのだろう。

 一連の報道を見ていると、どうやら、置石だのテロだのと言った直接的な外部からの干渉によるものでもなく、突然運転士が死亡したというような健康上の理由でもなく、あの場所にあの速度で進入したことによる事故ということになりそうだ。なぜ運転士がその速度であのカーブに進入することになったかという背景ばかりをここしばらくテレビや新聞などでは報道しているが、私はそんなことは事故調査担当者に任せて、もっとほかに確認しなきゃいけないことがあると思っている。

 この事故が起こった以降に飲み会に行った奴がいるとか、ボーリングやってた奴がいるとか、そんなことは、どーでもいいことだ。この事故が起こったことそのものの原因ではないし、そんなのはそういうのを平気でやってしまう個人のモラルとかメンタリティの問題で、それをJRの幹部に詰め寄ったって(いや、それに参加した本人に詰め寄ったって)事故が減るもんでもない。ただただ犠牲者の遺族の感情を逆なでするだけだ。

 事故を起こした運転士が、その日の勤務内にオーバーランを起こして焦っていたであろうこと、そしてそれまでも数度ミスを起こしていたこと、というのは、基本的にはその個人の問題に帰着しうることがらだ。事故に巻き込まれた方々には申し訳ないが、巻き込まれなかった者たちが本当に知りたいのは、その事故の原因そのものではなくて、ほかで同じことが起こりはしないかということだ。

 その運転士のこれまでの経歴(人柄とか学生時代の評価とか、勤務態度とか)をいくら知ったところでそれは今後の役には立ちはしない。仮に生真面目でとってもいい人物だったとして、それがどうしたと言うのだ。それに、今後、私たちが鉄道なりバスなり交通機関を利用する際には、乗る時刻なり車両なりを選択はできても、その車両の運転手を選ぶことはできないし、仮に選べたとしても、その運転手の経歴だのこれまでの事故歴だのを知りようがないからだ。

 列車に限らず事故というものはそれが故意に起こされたものでない限り、複合的な原因が、ほとんど起こりえない確率で重なり合って起こるものだろう。何かが1つ変われば(例えば運転手がブレーキをかけ始めるのが1秒違っただけでも)事故は回避されたか被害が軽減された可能性だってあるだろう。けれども、事故の原因のうち、構造的なものと偶発的なものとはかなり峻別が可能なのではないだろうか。そして偶発的なものは(悲しいけれども)その発生確率を低減させる対策を講じておき、万が一そのような事態になってもフェールセーフな仕組みを準備しておくということになるだろう。けれども構造的な原因があり、それが除かれないのであれば再発する危険性は残ることになる。

 ここしばらくマスコミで流されている(どうも私には労働組合のプロパガンダにしか見えないが)、いじめにしか見えない「日勤教育」のプレッシャーは、構造的なものではなくて、属人的なもので、偶発的な要因と言うべきものだ。そんなのを何度受けても何とも思わない人だっているだろうし、そもそもミスをしなければそういうものを受けないわけなのだから。けれども、そのミスが、回避困難な状況によって引き起こされているのであれば別である。今回の事故で言えば、「長い直線が続いた後の急カーブ」という地理的な状況。たぶんこれがもっとも根本的なものであって、そこに速度を上げて走らざるを得ないという状況が加われば事故の危険性が高まる。また乗客の数やその重量配分、そしてそれに適応した車両の構造か否かという要素も加わってくるのだろう。
 最近の報道で気になって仕方がないのが、「速度を上げて走らざるを得ないという状況」ばかりを強調している点だ。儲け主義だの、過密ダイヤだの、運転手へのプレッシャーだの。それは原因じゃないとは言わないが、かなりの遠因のように思える。煎じ詰めればおそらく「危ない場所に危ない速度で進入した」のが事故そのものの原因だろうし、それ以外の、いろいろ報道されていることのほとんどは、「速度を上げて走らざるを得ないという状況」でしかない。これでは再発の危険性をなかなか低減しづらいのではないか。事故現場以外によく似た状況の「危ない場所」はないのか、あるとすればその場所では事故を防止する措置がどの程度とられているのか(またはいないのか)を検証しているように見えないのが非常に気にかかるのだ。
 もちろん、「危ない場所に危ない速度で進入した」だけではなく、「危ない場所に危ない車体で危ない速度で進入した」というのが原因なのだとしたら、そちらも対処を急いでもらいたい。

 「私はJRなんてもう乗りません」
 などと言える人は、他の選択肢が準備されているところに住んでいる、贅沢な状況に置かれている人だ。たぶん多くの人々は嫌でも乗らなきゃいけない。であるならば、事故の原因のうち、偶発的なものについてはある確率で起こってしまうのだとしても、その確率を上げてしまう、構造的な原因がどこにあり、それを取り除く作業がなされているかを明らかにしてほしいものだ。

 もちろん、この事故そのものの原因追求はなされるべきだし、その責任は追及されるべきで、それは大いに進めるべきである。が、最近の報道の内容はどーも前向きじゃない。事故の原因追求にも、今後の再発防止にもつながりそうにない。

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Updated : 2005/05/08