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Title : Depression in the magicless society
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Contemporary Files #20050317
呪術なき社会の憂鬱
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 最近の世の中は何かおかしい…と感じている人は多いに違いない。
 天変地異が続いているというのもあるが、そのことよりも、一昔前では考えられなかった妙な…フツーの生活者の感覚では理解しがたい…事件が多発しているという雰囲気が蔓延している。幼児を誘拐して殺害してその写真を家族に送りつけたり、インターネットで知りあった、それまで他人同士だった人々が集団で自殺を図ったり、いきなり学校に刃物を持って乱入し、あたりかまわず殺傷したり。
 これらの事件は、正直なところ私には理解できない。その事件を起こした当事者(たち)にとっては内的な論理一貫性がある/あったのかも知れないが、少なくとも一般に受け入れられるような説明はなされていない。いや、説明がなされたとしても、納得できるものではないだろうし、するべきではないと思う。
 「天の声が聞こえた」とか「むしゃくしゃして」なんて理由で納得しちゃいけない。納得するってことは、それ以上「どうして?」と問わないってことだ。たとえ被害者が自分の近親者であっても、だ。
 何か異常な事件が発生したときに、そういう事件を起こさざるを得なかった加害者を生んだ社会の責任にしたがる人種がいるけれども、もし仮にその説明が正しいのなら、この社会に属しているすべての人がそういう事件を起こさないことを説明できない。もちろん完全に無関係ということはないが、主因ではないだろう。第一義には加害者に問題がある。だから、納得なんかできないのだ。

 とは言うものの、じゃあ、そういう事件を起こしそうな連中を片っ端から社会から隔離することもできない。「そういう事件を起こしそう」じゃない、「まとも」と思われる人であっても、何らかの過失で事件(事故?)を起こすことだってあるだろう。交通事故のよる年間死者数はここ数年では8千人程度である。ということは1年のうち、だいたい1万人に1人弱の人が亡くなるってことだ。自分がその被害者になる確率は 1/10000 。これを高いと見るか低いと見るか。もし上で書いた(社会通念からは)異常とみなされる人々の引き起こす事件に巻き込まれる確率が、 1/10000 を下回るならば、実は「車より安全」ということになる。

 …が、そんなことを言われても誰も釈然としないだろう。頭の上ではわかっても、感覚的に素直に「うん」とは言えないだろう。「漠然とした不安」がぬぐい去れないからだ。

 そこで考えてみた。
 おそらくどんな時代・どんな社会でも、それぞれの社会情勢からは逸脱した者による「異常な」事件が発生する確率は 0 ではなかっただろう。で、「変なヤツ」が現れて、「変なコト」をしでかしたとする。当然ながら社会不安が醸成されるだろう。

 社会不安が高まった場合の対処の方法って、その原因を特定して解決してしまうのでなければ、「生贄の羊」をでっち上げて社会の内部・または周辺部で社会不安の原因を背負わせるか(ナチによるホロコーストはこれ)、社会外へ原因を持たせるか(一昔前だと戦争してみたり、合衆国みたいに空爆してみたり)、原因に取り組まずに大衆に迎合してひたすら目隠しをするか(ローマ帝国の治世方法なんてそんな気がする)…みたいな方法になるんだろう。昔…と言っても近代以前か…だと、「呪術」という解決(?)もありえた。厄介なことばかり頻発するときに厄払いの儀式をするなど。現在に住む私たちの感覚からすれば、厄払いの祈祷をすることと、厄介なことがなくなることの間には因果関係はないんだから何の解決にもなってないと感じる。でも、「ここで厄払いをしたんだから、もう安心だ」とその社会の構成員の大半が思ったら本当に社会不安は沈静化されてしまうだろう。そういう機能的な側面もあったに違いない。(社会学が好きで好きでたまらない人はイギリスの人類学者・マリノフスキーの著作でも読んでくれい。)

 ところが現代には、その「呪術」の役割を果たすものがない。どこかから英雄だの「機械仕掛けの神(Deus ex machina)」が現れて世の中の矛盾をズバッと解決してくれるわけでもない。…で、さらに鬱憤が蓄積されていく…。。。


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Updated : 2005/03/17