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Title : The reason why they don't rescue their Guru
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Contemporary Files #20040301
教祖奪還しないわけ
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 この前、オウム(現アーレフ)の麻原彰晃に死刑判決が出たよね。で、まだ教団に残ってる人たちが「教祖奪還!」って何かやらかしはしないだろうか。と危惧したんだけど、杞憂で済んだ。それはそれでまことにいいことなんだけど。
 その原因(?)が、もはや教団にそれほどの狂信性や行動性がないから、なのかどうかってことをつらつら考えていて、「おもしろい」理由を思いついた。それは

教団存続のために教祖を見殺しにした

である。

 仮に彼らが自分たちの信仰を純粋に信じているのであれば、現在自分たちの教団を取り巻く環境に対する宗教的意義を求めるはずだし、教団幹部は説明せざるを得ないであろう。それは何もオウムに限ったことではない。

 唱導宗教(創始者がいる宗教、とでも理解してくれい)は、現在がどれほど大人数の信者を抱える宗教となっていようとも、その出始めの頃(創始者が自分の教えを説き始めた時期)の社会にとっては、当時の「伝統的な教え」にそむく「おかしな教え」を説く連中に見えたに違いない。…というか、創始者たちにしてみれば、当時の「伝統的な教え」に異議を唱えることで新たな宗教の創始者足りえたわけで、ほぼ必然的に迫害が起きることになる。すると、その迫害に対する宗教的意義を与えなければならないはずなのだ。
 「自分たちのほうが正しい教えに従っているのに迫害されるのはなぜですか?」
という純粋な信者の疑問に答えるべきだ。そこで展開される論理は「世間のほうが間違っている」「悪の勢力が人々の心の中に巣くっていて真実を見る事ができない」、すなわち「正しいからこそ迫害される」である。
 で、この論理を採用するならば、その迫害は受けきらないと一貫しない。安易にその迫害から逃れたり、救出したりしたのでは、「正しさ」の証明が困難になる。「正しいからこそ迫害される」のであれば、迫害が終わるのは迫害を加える側が「正しさ」を認めざるを得なくなった場合に限る−つまり迫害者側から迫害をやめた場合に限る−からだ。

 それともう1つは、自分たちを迫害している者たちをどう見るか、という問題がある。
 殲滅すべき不倶戴天の敵と見なすのであれば、徹底抗戦する以外に道はない。が、「悪の勢力が人々の心の中に巣くっていて真実を見る事ができない」と見なすのであれば、「蒙を啓く」(←最近、この表現は使うべきではなくなってきているけれど、この状況を説明するにはこれ以上の言葉はない)必要がある、現時点では「かわいそうな被害者」が自分たちを迫害していることになり、殲滅することが許されない。すると耐えるしかないわけだ。「無知な俗衆」によって犠牲になった者たちを、彼らの無知の罪を替わりに背負っていった殉教者と崇める必要があるのだ。

 んなもんで、教団としては、「教祖は人々の罪を一身に背負って殉教されたのです」とするほうが、物理的な暴力で奪還してしまうよりも、教団の教理上も、社会的な意味でも、存続の可能性を高めることができるのではないだろうか?

 いや、まあ、ここに書いたことは全部ハズレで、単に、ひっそりと生きていきたいだけなのかも知れないけどね。

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Updated : 2004/03/01