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Title : Criminal Responsibility
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Contemporary Files #20040106
行為に対する責任
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 昨年後半に、不審な人物が小学校に侵入し、生徒に危害を与えようとした事件が連続して発生した。そのうち京都府宇治市立宇治小侵入事件の容疑者に対し、京都地方裁判所は今日、犯行当時に刑事責任能力があったとして、殺人未遂罪などで拘置期限の9日までに起訴する方針を固めたらしい。この手の事件に対して一般の人どのような感想をお持ちなのだろうか。このページを見に来る奇特な方々はそれなりに意見をお持ちだとは思うけど、うちの父親あたりだと、「そんなアブナイやつなんか片っ端から捕まえたらえぇねん」ってなことを言いかねない。

いや、時折、ニュースを見ながらそういうことを口走ってたような気がする。頼むから、親父、そんなこと家の外で広言しないでくれよな。

 現行の日本の刑法(39条)では、犯行時において心神喪失なら罪を問われないし、心神耗弱なら罪を軽減される。(これを「マクノートンルール」とか「マクノートン原則」と言うらしい。) だから刑事責任能力の有無が問われるわけだ。あともうひとつ、刑法によって罰せられない条件があるよね。14歳未満、という条件。こっちは更生とか教育的効果とかの意味もあるけど、その奥底にあるのは、(心神喪失・心神耗弱とは意味あいが異なるけれど)責任能力の欠如ではないのかと思う。世の中に生きる「おとな」として、その社会における規範を十分に認識しえない存在には責任を問うべきではない(あるいは問うことができない)という考えが基本にあるのではないだろうか。

 ある犯罪−というと、罪刑法定主義に基づく限り、まず法による罪の既定があってそれを犯すことが前提になるので、「自他への危害を与える行為」としたほうが妥当か−を行った場合、それに社会はどのように処遇すべきかは、何に焦点をあてるかによって異なるはずだ。上記の「社会における規範を十分に認識しえない存在には責任を問うべきではない」という考えに立てば、行為者(言葉を濁さずに言えば加害者)の能力に応じて制裁を勘案することになる。けれども、他の考えも成立可能ではないか?
 加害者の能力がどうあれ、その行為によりもたらされた結果は、被害者にとってはやはり被害なのだ。いい大人が「失業してむしゃくしゃして放火した」ものであろうと、小学生が「火を点けるのが面白かったから」放火したものであろうと、それによって起こった火事で財産や、場合によっては生命を失った被害には変わりはない。最近の私の思考はこっちに傾いている。すなわち、加害者の能力(犯行時における精神状態)ではなく、その行為によってもたらされた結果に対して相応の刑罰を与えるという立場だ。ってなことを書くと、心神喪失・心神耗弱の場合や、14歳未満の場合はどうするんだ、って言われそうだけれども、それは「罪を犯したという事実に対する刑罰」と「本人に必要な治療または教育・更生」とを同時に考えるからそういう問題に直面するのではないか、とも思うわけだ。自分のとった行動の結果(で自他に危害を加えた場合)については、きっちり「オトシマエ」を付ける。治療や教育が必要なら受ける。そういう方法も可能だと思うのだ。

 ケッタイな事件を起こした容疑者が「神から『殺せ』と命令が届いた」とか言ったりすると、精神鑑定にかけられることが多いんだろうけど、その鑑定の客観性ってどうなのかね、という懸念もあってね。精神鑑定の結果が被験者のそのときの状態に依存することもあるだろうけど、そもそも鑑定する技術とか方法とかの客観性・一貫性ってのがどこまで確保されてるんだろう、ということだな。同じ被験者に異なる鑑定士が同じ方法で鑑定して、違う結果が得られるのなら、それは「客観的」とは言わんよ。
 これって、有罪・無罪の判定を鑑定士の主観で行うことに等しくなる。これを分離すべきだと思うのだな。行為の犯罪性については司法が裁く。症状の軽重については専門の鑑定士が診断する。それでいいじゃないか。
 また、見方を変えると、心神喪失または心神耗弱であると刑法の対象外になるということは、裁判を受ける権利という国民の権利を制限することになってるわけだし。

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Updated : 2004/01/06