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Title : The rogue nation
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Contemporary Files #20030324
合衆国が戦争をやめるとき
/ BBSへGo! /

 まあ、ここのコーナーはいろんな人の顰蹙を買ってるんだろうなぁ、それで今回は輪をかけて顰蹙を買うんだろうなぁ、などと思いつつ。

 今起こっている戦争を終わらせる具体的な方法があるか、とあれこれ考えてみる。私が何かの方策を検討する際の思考方法としては、まず、いろいろと条件を付けないままに、その目的を実現するため考えられる手段を考えてみる。早い話、「手段を選ばない」という状態で考えてみる。そして、その後に「それを誰がやるのか」「どうやってやるのか」「誰の資金で行うのか」で絞っていくことが多い。何かを発想しなければならないときには、最初から「あれはだめ」「これはだめ」と考えていては、それまでの枠を超越した結論なんて得られないからだ。

 さて。この戦争を終わらせる最も単純な方法は、もちろんフセインが亡命することだ…ということになっている。けれども、たぶん、それは周辺諸国だとみんな思ってるんだろう。けど、フセインが「合衆国に亡命したい」なんて言ってきたら、当のブッシュはどうすんだろうか。「亡命したら戦争しない」なんて言ってたから、その時点で戦争は取りやめ。「亡命しろ」って言ってたんだから、「その亡命は認めない」とか「受け入れられない」なんて言っちゃだめ。で、亡命を受け入れたら、やはり丁重に扱わねばならない。そりゃあね、「不慮の事故」で死ぬことがあるかも知れないけど、それが本当に不慮の事故であっても、(老衰以外の死は)世界中から疑われる。たぶん合衆国政府を困らせるのは、頭に血が上った反フセイン勢力が暗殺しようとしたときで、その場合は全力でフセインを守らねばならない。気持ちのどこかで「ちょっと警備を緩めたら…」なんてこともあっても、やはり老衰以外の死は、疑われる素。
 まあ、フセインは日本の戦国時代の歴史なんて知らないだろうけど、1599年(慶長4年)の閏3月に前田利家が死んだあと、石田三成が加藤清正らの襲撃を受けた際に、対立していた徳川家康の伏見屋敷に保護を要請したようなもんだ。そんときに家康が三成を殺してたら関が原なんて起こらなかったはずだけど、保護を申し出てきた丸腰の敵をばっさりと謀殺したのでは、面子がつぶれるのよ。だから、家康は三成を守った。そういうこった。フセインよ、安住したければバグダッドの地下室にこもってないで、アメリカに亡命申請しよう!

 さて。次に最も安上がりな方法。2発の銃弾があればいい。
 フセインが自国民によって暗殺されること。実は、世界はこれを望んでいるフシが感じられる。んー。ドイツとかフランスとがが、平和主義からアメリカの行動に同調しなかったのではなくて、「フセインは悪いヤツっちゃ。やっつけなあかん。けど、だからといってイラクという国をやっつけるのはスジが通らん」というような言い回しになってる。世の、戦争反対を呼びかけている人の言い分を聞いてごらん。「無辜のイラク国民が犠牲になります!」だ。ということは、「無辜のイラク国民が犠牲に」ならないでフセインが排除できるのであれば、それに反対しにくくなる。反対すれば、「んじゃ、『無辜のイラク国民』がフセインに圧政で苦しめられてもいいわけ?」っていう反問に答えなきゃいけなくなる。
 そしてブッシュが自国民または友好国民によって倒されること。両方の当事者が、敵方ではなくて味方(と思われる勢力)によって倒されること。敵方からだと火に油を注ぐだけなのでね。戦争をしたがっていて、それを実行できる張本人を黙らせることなのよ、要するに。

 …っとまあ、以上、2案は速攻で却下されるのは目に見えているので、もう少しまともなのを。

 歴史上、帝国が領土外にちょっかいを出すときは、領土(というか影響圏)を広げたくて広げたくて仕方がないときか、領土(影響圏)を広げておかないと怖くて怖くて仕方がないときかのどちらかのような気がするのよ。20世紀以降の合衆国は後者ではないのかな。あの国は逆説的な意味で恐ろしく「内向き」な国なのではないか、と。政治思潮やとりうる政治手法は様々はあるにしても、結局、それは合衆国の国益を守るという一点において共通した基盤を見出し得ると思う。「自由と民主主義を守る」のが目的なのではなくて、世界がそうなってくれないとオイラは枕高くして寝れねぇ、みたいな言い分を主張の背後に感じるような気がする。
 それと「内向き」と書いた理由はもうひとつ。おそらく合衆国のどんな政権も国際世論なんてなんとも思ってない。国連に対しても、合衆国の主張が通るなら存在意義があるとみなしているようなフシがある。けれども合衆国国内の世論に対しては敏感に反応する。ベトナム戦争だって、国内世論に「負けた」という一面があると言えるし。

 合衆国に戦争をやめさせたかったら、日本で政府や合衆国大使館にデモをしかけるよりは、合衆国国民に対して、その世論を変えさせる(いろんな世論調査では合衆国ではブッシュ支持が優勢)戦術を考えたほうが効果的なのではないのか。

 憎まれ口たたくついでに書いとこう。
 動機の純粋さは必ずしも望ましい結果を保証しない。こんな単純なことを、動機が純粋な人であればあるほど見失いがちだ。それに、何か望ましい結果があったら、全部自分(たち)の活動の成果だと思い込むオメデタイ人たちが、実は、問題の解決をより困難にしているという側面があるような気がする。
 誰かのある行動を止めたい・変えたいと思ったときに、その「誰か」に全然影響を与えないところで反対運動をして、それでその「誰か」の行動が変わんないことを「私たちはこんなに活動したのに、彼は聞かなかった。なんてひどいヤツだ。それでも私たちはめげずにがんばる!」なんて、それはちょっとスジが通ってないだろう。結局それは、「自分はこんないいことを一生懸命してる!」というのに酔いたいだけなような気がする。本気で何かを変えたいのであれば、「何かを始める」前に「それを実現するのに効果的な方法は何か」を考えるべきではないのか、と思う。もちろん、それが自分の周りのことであるなら、自分が「何かを始める」のには意味がある。けれども、それが地球の反対側のことだとしたら、自分が自分の周囲だけで何かをすることが、単なる自己満足で終わることだって往々にしてある。(その行動に反対するのではなくて)それを指摘することが、その動機の純粋さを汚しているかのように理解して、逆にキレられてしまうことがあるのには困ってしまうことがよくあるのだぁ。
 話を今回の件に限っても、「ブッシュは私たちの声を聞いていない」という言い分は成立しない。だって、その「私たち」が日本で反対のデモ行進をしてる人の声だとしたら、そんなのブッシュは聞こえてないもん。それに合衆国ではブッシュ支持の声のほうが多いわけだから、「有権者の声」は聞いているわけよ。だから、本当にブッシュの行動を変えたかったら、ブッシュが声を聞く相手の声を返させなきゃならない。だから、語りかけるべきはコイズミの純ちゃんでも、合衆国大使館の職員でも、日本の政治家でもなくて、アメリカにいる、(できればテキサスあたりの)フツーの人であるべきじゃないのかい?

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Updated : 2003/03/24