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Title : Animal rights
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Contemporary Files #20030317
タマちゃん騒動
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 Animal rights という言葉をご存知だろうか。日本語にはなりにくいんだけれども、人権(human rights)と並行的に、動物の生命の尊厳を尊重する「人権」というかなんというか、とにかく Animal rights だ。
 日本に住んでいる普通の感覚の人なら、動物を虐待することには反対するだろう。今では動物を虐待した人を罰する法律もあるし。けど、小さい子どもがカエルを爆竹で爆破したり、ミミズをちぎったり、ナメクジに塩をかけてみたり(んー、最近のこどもはやんないか、そういうこと。。。)というのは注意はしても罰したりはしないだろう。また、道路に飛び出した動物(犬や猫やカエルなどなど)をはねたり轢いたりして殺傷しても、特定の動物を除いては(私の住む奈良だと奈良公園の鹿を殺したらおおごとだ)罰せられないのではないのか。
 さて、そういうことを不合理だと思うのか、そんなんしかたないやんと思うのか。

 もし動物はいかなる場合でも人間と同様、生きる権利を持っており、不合理にそれを奪うことは許されないと考えるなら、たとえ事故であっても人間は罪に問われなければならない。仮にそうだとしたら、どこまでの動物は殺してもよくてどこからはマズイのか。もし「全ての動物は殺してはならない」としたら肉食は許されない大犯罪なのか。肉食を認めるなら「食べるためなら殺してもいい」のか。食べるためではないので蚊やハエやダニやゴキブリすら殺してはだめなのか。田畑に農薬を撒いてはだめなのか。動物はだめで植物は食べていい理由は何か。空気中には無数の微生物が浮遊していて、鼻腔などでとめて殺しているわけだけれども、それすら許されないのか。「生きるために最低限度の殺傷を認める」のだとしても、その「限度」はどこにあるのか。
 別の観点もある。食べるために殺すことを是とするとして、その殺し方がどのようであれば「人道的」であるのかということ。生きたまま「踊り食い」にするのと、アルコールで眠らせてそのまま生で食べるのと、血管を切り裂いて失血死させるのと、釜茹でにしてじわじわと殺すのと、首をちょぱっと刎ねるのと。痛みを感じる時間が最も短い最後の方法が最も「人道的」じゃないかという意見を読んだことがあるが、みなさんはどう思うのだろう。

 環境に対しても大きく分けて2つの見方が存在する。環境倫理学(Environmental Ethics)の分野では、環境を「守る」と言った時に、それが「保全(conservation)」なのか「保存(preservation)」なのかで、その背後にある自然観・人間観を反映することになる。「保存」の立場が生命中心主義(biocentrisim)に立って現存する自然を破壊から(場合によっては人間から)自然を守ろうとするのに対し、「保全」は人間中心主義(anthropocentrism)に立って自然資源の利用を将来にも保証する様に努力する。

 さて、横浜市の帷子川で、11日に(あれ、今週じゃないや。)アゴヒゲアザラシのタマちゃんを「北極圏の海に帰すため」に「タマちゃんを思う会」のダイバーらが網で捕獲しようとする騒ぎがあった。さて、あの騒動を皆さんはどのように思ったのだろう。
 「アザラシは都市部の河川にいるべき存在ではないから、本来の居場所である北極海に返してあげるべきである」という「思う会」の主張に賛成(もちろん手法に問題はあるとは思うが)するのか、「問題なくここにいるのだからタマちゃんの意志を尊重してあげるべきだ」「タマちゃんに謝れ」という「見守る会」の主張に賛成なのか。
 私ぁ、どっちもどっちだと思うねぇ。
 まず「見守る会」の主張だけれど、タマちゃんが自分の意志で帷子川にいるというのは勝手な思い込みに過ぎない。事実はあくまで継続的に帷子川周辺に出没するというだけで、好き好んでこの場所を離れないかどうかなんて確認の仕様がない。他に行きたいのだけれども行けないから帷子川周辺にいるのかも知れない。つまり「思う会」の行動が実はタマちゃんにとっては助けである可能性は排除されない。タマちゃんに謝るべきなのは驚かせてしまったことに対してであって、捕獲しようとしたことではないのかもしれない。それにさあ、今はただその辺を泳いでるだけなので「かわいいねぇ」「和みます」で済んでいるけど、近くまで見に行こうと近づいた子どもを何かのハプニングで尻尾で殴るとか、体の下敷きにしたとかで殺してしまったり、そうでなくても人間の生活に害を与えるようになったら、そのとき周辺住民は「危険鳥獣駆除」に走るんじゃないの? それともそんな事態でも「見守る」のかな。
 一方、本来都会の河川部にいるべきではない、という「思う会」の主張は一見、スジが通っている。が、それも実は人間の勝手な想像だ。住みやすい場所を探して帷子川に定住したのかも知れない。本来というのは、所詮、人間がこれまで理解している生態に関する知識に基づいている。ひょっとしてタマちゃんには並外れた環境適応能力があって、新たな種が生まれるかも知れない。
 だって、200万年くらい前、本来住むべきである木の上から地上におりて、本来の姿勢でない直立歩行を行ったサルのなれの果てが今の人類じゃないか。もしその時にそれを見ていた知的生物が「本来の姿に戻してあげよう」とちょっかい出してたら、僕らはまだ木の上で生活していたかも知れない。
 ってなわけで、どっちも自分たちの都合しか考えてないのねん。

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Updated : 2003/03/17