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Title : I'll forgive you
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Contemporary Files #20020916
それでも「赦す」と言おう
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 17日の日朝首脳会談において日朝国交正常化交渉再開をはじめとした共同宣言を結んだことに関し、様々な−どちらかといえば負の−反響が出ている。今まで単なる「疑惑」でしかなかった日本人拉致問題について朝鮮民主主義人民共和国(以下DPRKと略す。英語表記の頭文字を取ったもので、外国の雑誌とかではこの表現が多い。)側が初めて公式に非を認めたのは進歩だが、それを聞いてロクに追求もせず、正常化交渉を開始するとは何事だという批判である。
 正直なところ、そのような批判を口に出来るのは家族を拉致された方々のみであって、そうでないのに同様に口走るのは本気で問題の解決を望んでいるのか疑わしい、自分の感情だけを優先させた発言だと私は思う。
 もちろんこれが国内の特定の集団が行ったのなら、国内法で許される範囲で徹底的に捜査して、責任者を逮捕して、責任をとらせればよいし、それを執行する強制力が政府の側にある。けれども、これはまがりなりにも他国の行為なのだ。国家の意思として拉致を行い、その地で死に至らしめたということは人道的にも道義的にも法的にも許しがたい。それでも「赦す」と言おう、というのが私の現時点での考えである。(もちろん、赦し方には様々な条件がつくが。

 何を言い出すのか! と言う人もいるだろう。では、逆に、赦さない、ということがどういうことかを考えてみればよい。現在の金体制を崩壊させるために、制裁や空爆でも行うのか? それでは合衆国が昨年にアフガニスタンに対して行ったこと、そしてこれからイラクに対して行おうとしていることと構造的に同じではないか?
 「あいつらはヒドイことをしたのだから、ヒドイめに遭わせてよいのだ」と主張するのは仇討ちの論理である。構造的に世界中で行われているテロの応酬と同じだ。出発点には国家間の違いとか、イデオロギーの相違とかそういうものがあったのかも知れないが、ある程度繰り替えされてしまうと、「オレの家族を殺したヤツ等」とお互い思って殺し合うだけの状態になってしまう。そうなると、もはや「問題の解決」などという理性の出る幕はなくなって、少なくとも一方が殲滅されるか、双方が暴力(とそのために強いられる緊張)に疲れるかでしか終われない。中断されたら、「自分の気が済まない」のだ。すると気が済むまで殺りあうしかなくなるのだ。
 もし、どうしても、拉致の関係者全てを日本の法律で裁きたいと言うのであれば実行犯の引渡しをDPRK政府が受諾する必要があるが、これだって交渉しなきゃ実現しない。それとも、実力行使して自国の支配化においてしまえ、とでも言うのか?
 つまり、本当に望んでいることが、DPRKの現体制の崩壊ではなく、日本を含む東アジアの平和と安定なのであるならば、「話にならない!」と交渉のテーブルを立つことは全く逆効果になる。
 単に加害者を追い詰め、責任を追及し、弾劾し、復讐を果たすことは、実は、その最初の野蛮な行為と同じ感情レベルに陥ってしまい、必ずしも平和をもたらさないということがあるからです。加害者に反省させること、2度とこのようなことが起こらないようにすること、憎悪の連鎖を断ち切ることが必要だと思う。

 「きれいごとを言っている」「遺族の気持ちになってみろ」と言われる方もおられるだろう。けれども犠牲者の仇討ちをしても、彼ら/彼女らが帰ってくるわけでもない。哀しいけれども起こってしまった事実を受け止め、この状態からいかに価値的な状況へもっていけるかが問われているのではないか。
 そうでない方法というのは、多かれ少なかれ、合衆国のような強硬手段ということになる。それを主張する人が多数になれば、「有事法制」が実現してしまうことになるが、そこに矛盾を感じていないのだろうか?

 「許そう、しかし忘れてはならない」という精神的な高みに立てるかどうか。今、日本人の器量が試される時ではないかと思う。


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Updated : 2002/09/22