Location : Home > Contemporary Files > 2002 Title : Legislation to deal with emergencies (2) |
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前回のを自分で読み返してみて、どうも説明不足の感があるので、補足をば。
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有事法制は是か非か敢えて答えよという質問を投げかけられたら、私は「是」という答え方をするだろう。それは以下のような考えに基づく。
さて、上記に思いつくままに書いてみたが、自分で見直してみて、気づいた点がいくつかある。
1つには、日本国内での緊急事態を想定していることだ。これは今の日本の自衛隊の装備では諸外国を侵略にいけそうにないと認識していることによる。海に囲まれた日本から外国に攻めにいくためには、上陸強襲部隊とそれを支援するために制空権を長期間にわたって維持できるだけの攻撃力を必要とする。もう少し具体的に言うと、海上自衛隊が空母を持ったり、合衆国の海兵隊みたいな組織が創設されたりしない限りは、他国への侵略など不可能だからだ。(逆に、そのような動きが今後なされたら徹底して反対する必要があることは強調しておきたい。)
恐ろしい状況になるとしたら、どのような条件がそろえば戦争が開始されるのか−それは裏返せばどのような条件になれば終了すべきなのか、ということだが−をきちんと認識しない指導者にその判断を任される場合だ。
2つめの私の暗黙の仮定は、民主主義の本質は合議でルールを作り、その手続きを守ることだと考えていることだ。強制力を伴って国民の主権を制限するようなことが現場の裁量だけで行われてはならない。そのようなものが発動されないのが望ましいのは当然であるが、発動する手続きも、発動後の措置もあらかじめ明らかにされている必要があるだろう。というのは、そのような緊急事態において最も恐ろしいのは、民衆がパニックを起こすことである。これを回避するのには、社会の仕組みがきちんと機能していることに信頼を持ってもらうことが必要である。これは属人的な信頼ではなく、社会システムに対する信頼であり、それは決まったこと・発表されたことがその通りに実行されることによって確保されると考えるからだ。
3つめの、少々残酷な認識。
緊急事態においては「一人一人を救うこと」よりも「一人でも多く救うこと」を優先せざるを得ないと考えていること。そしてそのためには、人権や人間の尊厳の確保よりも人命の救助が優先する。少なくとも私はそう考えている。全ては生命の安全が確保されてからだ。個別の事情を勘案してどう救うべきかを判断している時間的・空間的・人的余裕があるなら別だが。
もちろん個人の生き方・死に様としては、尊厳を貫いての死という選択肢もあろう。けれどもそれを他人に強いることはできないし、強いてはならない。
強調しておこう。守るべきは国家だの憲法だの機構だの、ではない。人々の生命だ。
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…さて。
ここまで書いたけれども、これまでの内容全体は実はさらに大きな前提の下に書かれている。それは「そのような緊急事態・極限状況が起こり得る」という前提だ。私は前回の最後で「日本には、日本の安全保障をきっちり考える知的集団が必要なんだってば。」と書いた。それが要点なのだ。
有事法制を推進したい側は「(有事が)起こったらどうする?」と言い、反対したい側は「(有事を)起こすつもりなんだろう!」と言う。もはやこれは議論ではない。27日の『TVタックル』でも国会議員がやりあっていたが、あれは感情的なわめきあいだ。
リスクをきちんと評価し、対処する方法を提示し、処理するという発想がどこにもない。
このままでは、決着がどちらに転んでも、私たち国民は守られはしないだろう。きっと政府の不作為によって見殺しにされる。
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Updated : 2002/05/28
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