Location : Home > Contemporary Files > 2002 Title : The 2002 Year Problem |
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「2002年問題」というのがある。
文部科学省が定める指導要領が全面改訂され、はっきり言って、内容がかなり薄くなるほうに改訂されることにより、大幅な学力低下が懸念される問題である。
とは言っても、こんなのはずいぶんと前から問題のネタはあったのに、いよいよこの4月から実施されるとあって、急に騒がれ出したように思う。
ちょっと不思議に思うのは、一昔前は、教育の問題と言えば、「画一的な詰め込み教育」だったように思うのに、いざ、思いっきり「ゆとり教育」とやらにシフトしたら、それはそれで問題にしたがるっていう傾向のほうだ。
まあね、そもそも国が準備する教育ってのは、「国民」という幻想を共有するための合法的な「洗脳」のことなんだから、どういう制度にしたって何か文句は出てくるもんなんだわな。けどね、国民としてその国にとどまる限りは、その制度の許で生きていかなくちゃいけない。それがイヤなら国を出るか、国(少なくとも制度を)を変えるか、である。個人的な見解を言わせてもらうなら、所詮、制度なんだから、国民としてうまく使うことを考えりゃいいのに、と思ってしまう。だってさ、うだうだと、気に入らんとか、もっといい方法はないのかって施行直前に騒いだって、結局それが改訂されるまでは、その制度のもとで生活しなくちゃならないじゃない。そもそも「もっといい方法はないのか」とかっていう議論は、その制度が導入を決定される段階で騒がなきゃ。もちろん施行段階で明らかになる問題もあるだろうけど、その制度の問題点を指摘して、「国は国民のことを考えてない!」って叫ぶことよりも、どんな制度だろうが逞しく使いこなしていってしまうほうがよっぽど庶民的だわな、と思うゾ。
まあ、おおよそ指摘されてる問題点ってこういう感じかなと思う。
でもね、「だから学校側はなんとかしろ」って言うほうが問題じゃないのかなぁと思うんだな。
「考える力を養う」なんてことが言われるんだけど、そんなのは、それができるくらいの材料となる知識が、詰め込みでもなんでもいいから一定限度蓄積されないと考えることすらできないと私は思う。最初ッから「考えろ」なんて無理な話だよ。
それに、子どもってのはそもそも好奇心旺盛にできてるんだから、興味さえもてば自分で勝手に調べて身につけていくもんだと思う。これを読んでるあなただってそうだろう? 勉強っていうんじゃなくて、自分の好きなことって、親とか教師に言われなくたって(いいかげんにしなさいと言われても)やり続けただろう?
「考える力」とか、知的な好奇心とか、知識を吸収しようとする力ってのは、周囲にどれだけそういう知的な刺激を与えてくれる環境に満ちているかで伸びもするしポシャリもする。私は独身で子どもを持った経験がないのでなんとも言えないが、もしあなたに子どもが居て、しかも勉強しないとお嘆きなら、そう嘆くあなた自身は、子どもの前で何かを学ぶ姿勢を見せたりしてるんだろうかて思う。見てるテレビ番組はお下劣なものばかりで、読んでる本はマンガで、家族の会話に何の知的刺激もないんだったら、子どもに勉強の習慣を付けろというほうが酷な気がする。
「考える力」とか、「何だろ、これ?」っていう問題意識は、「嗅覚」に近いものがある。そう、「匂う」んだ。何か自分にとって知らなきゃならない、大事なものがそこにあるっていう「匂い」なんだ。そういうのに気づく能力って、そういう能力に触れないと身につかない。そういう能力って、学校(全員が同じことを同時に学ぶ集団教育)ではそもそも身につかないもんだと思ってるんでね、私は。
「ゆとり教育」ってのはね、勉強したいヤツにはどんどん勉強できる時間ができる制度なんだってば。もちろんその「ゆとり」を享受する方法はいろいろあるので、別に勉強だけをする必要はない。学校だの自治体だのに何とかしろって言う前に、子どもにいかに知的刺激に満ちた環境を準備できるかっていうことを考えたほうがよっぽど建設的だと思う。そしてそれは、別に金をかけなくたって十分にできるんだ。
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Updated : 2002/03/04
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