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Title : The peace never come (4).
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Contemporary Files #20011218
「もはや“平和”は来ない」(4)
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…事件のニュースです。
 12月14日から15日の未明にかけて、東京は隅田川沿いの民家を複数の男が侵入し、抵抗した同家の住人を多数殺傷するという事件が発生しました。実行犯らは警備当局に出頭、「我らの指導者の死をもたらせた者への報復である」と主張しており、彼らは政治的な意図のもとに同家の主人の暗殺を図ったものと思われます。

 …もし元禄15年に報道番組があればこういう風に報じたんだろう。
 ここで言う「民家」とは江戸本所松坂町の吉良邸であり、侵入した「実行犯」らとは旧赤穂藩の四十七士のこと。つまりこの「事件」とは世に言う赤穂浪士討ち入りのことである。年末になるとどこかの放送局でこのドラマを放映してると言えるだろう。それだけ日本人の心になじんだストーリーであることは否めない。
 冷静に考えれば、司法による判断が下されたにも関わらず、それを不服として法的な手続きに基づいて反論したのではなく、自らの信条に依拠して武力で威嚇し、(隠居したとは言え)有力者を暗殺したというのは事実だ。
 けれども、ほとんどの人は赤穂浪士四十七士を「義士」(=義を守り行なう士。高節の士。)と称えこそすれ、殺人者として糾弾する人はほとんど居ないだろう。
 さて、そこでイジワルな質問をいくつか。

Q1:動機が純粋なものであれば、殺人も賞賛されるのか?

 なぜ、赤穂浪士の行為は集団暴力による個人の暗殺であるにも関わらず賞賛されるのか。それは主君の仇を討つという「大義」を最優先し、私心はなかった(とみなされた)からだろう。では、単なる怨恨ではない、私心のない行動であれば、それが暗殺であっても許されるのだろうか?

Q2:「大義」に立ちふさがる人物の「排除」もやむをえないのか?

 赤穂浪士は討ち入りの際に、吉良氏一人を討つだけでなく、吉良氏を守るために戦った人々(その中には家人も家来もいただろうが、吉良家には直接関係のない傭兵もいただろう)を殺傷した。それを「巻き添え」と言うのかどうかは問題だが、殺さなくても済んだ人も多数いたのではないか?

Q3:彼等の行為はテロではないのか?

 上記のこともあるし、赤穂浪士の政治的意図に基づく要人暗殺による公儀への抵抗の意志表明という行為は紛れもなくテロ行為ではないのか?

Q4:仮に彼らの行為を「その時は仕方がなかったのだ」と是認するなら、現在のテロを認めない理由はあるか?

 そこで、一連の問いの核心がこれである。
 それでも、日本人の心の奥底には、赤穂浪士を「テロリスト」呼ばわりすることに抵抗があるだろう。それはなぜなのか。
 いつ、どこでも、いかなる対象に対するものであってもテロを否定するというのなら、赤穂浪士討ち入りはテロとして断罪すべきである。これはテロでないというのなら、それはなぜか。そこには、各人の心の中にあるテロの定義が潜んでいる。

 さて、あなたも自分自身に問うてほしい。


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Updated : 2001/12/18