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Title : No more heroes
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Contemporary Files #20011015
「英雄」の連鎖
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 日本国内でもそうだけれども、当の合衆国内でも、今回の報復が「戦争」なのかどうか疑問をはさむ議論が出てきている。(展開されているのは、報復そのものに反対というのではなく、報復の名目が何かっていう議論なんだけれども。)
 というのは、仮にこれが「戦争」なのだとしたら、戦時法に則って行動しなきゃならない。そもそも相手を戦争できる相手だと見なしたことを意味しちゃう。だったら、「降伏します」って言ってきたら、仮にそれがビン・ラディン本人であったとしても、ズドンと撃っちゃいけない。休戦協定だの、降伏文書だのに署名してもらって、それでおしまい。それ以上のことをやっちゃいけない。
 仮にこれが「報復」なのだとしたら、そもそもそれが許されるのかっていうことになりかねない。

 実はこの背景には、そもそも9月11日のテロ攻撃が、真珠湾攻撃に匹敵する事実上の宣戦布告なのか、それともユナボマーと同列のテロ犯罪なのかっていうことに関して判断が曖昧だってことがある。ブッシュ大統領は「戦争だ」と言っちゃったので、これはもう、やはり戦争なのか。

 継続しているアフガニスタン各地に対する攻撃は、純軍事的には、そもそもまともに対抗できるだけの軍事力がないのだから、合衆国(+英国)側がタリバン側を圧倒して終わるだろう。仮に地上軍投入となってゲリラ戦になったらわからないけど、そうなったら不利なのは英米軍もわかってるんだから、ゲリラ戦にならないように終結させるだろう。けれどもそれを「勝利」と言えるのかというと、それは大きな疑問だ。

 今回も戦闘で、ビン・ラディン氏やオマル氏が無事ですむのか、亡くなるのかはわからない。けれども、生きて捕まり、(仮に彼らがテロの犯人だとして、だけれども)彼ら自身の口から、謝罪と反省の弁がなされない限り、殉教者として人々の意識に、ヘタすると歴史に残ってしまうかもしれない。歴史上の人物になってしまうと、かなり効果的な免罪符を手に入れることができる。見る人間によっては英雄として扱われるからだ。

“ヒトラーにいかなる懲罰を加えようと、彼が自分が偉大な人間で感じることを妨げることはできない。なかんずく、二十年後、五十年後、百年後、あるいは二百年後、ドイツ人であるなしを問わず、ある孤独な夢想家の少年が、ヒトラーは偉大なる人物であった、徹頭徹尾、偉大なる運命であったと考え、魂のいっさいをあげて、おなじような運命を願うことを妨げることはできない。そうなったら、その少年の同時代人は不幸なるかな。”

(『シモーヌ・ヴェーユ著作集5 根をもつこと』 春秋社)

 人々を殺す者であれ、その人物を殺す者であれ、彼らを英雄視し、歴史上の偶像に祭り上げてしまう心理がある限り、その偶像の模倣者を次々に生んでしまう危険が潜んでいる。単にテロの容疑者を捕捉することだけでは不充分だ。彼らを英雄視し、祭り上げさせてはならない。そのためにはヴェーユは、「偉大さの観念とその意味との全面的変革」が必要だと説く。

“この変革に協力するにあたっては、まずもって、自己自身のなかでこの変革を成し遂げなくてはならない。われわれ各人は、偉大さに対する感情の向け方を変えることによって、いまの瞬間から、自己自身の魂の内部においてヒトラーの懲罰をはじめることができる。”

(『シモーヌ・ヴェーユ著作集5 根をもつこと』 春秋社)

 「英雄」を待望し、自己同化し、自分の行動を正当化する心理との深くて長い闘いが戦闘終結の後に必要となるのではないだろうか。


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Updated : 2001/10/15