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Title : The weak
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Contemporary Files #20011001
自分を「弱者」と宣言すること
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 複数のインターネット上の掲示板システムやメーリングリストでの、往々にして不毛なやりとりを眺めてて、気づいた原則がある。それは先に「私は傷ついた」と宣言したほうが勝ちということだ。現実はどうあれ、まず一方が「私は被害者だ」という意味のことを言えば、その意図はどうあれ、そう言わせた(言うきっかけを作った)相手は自動的に加害者に追いやられることになる。<加害者/被害者>という対抗軸のもとでは、分が悪いのは「加害者」だ。もちろん本当に悪意をもって攻撃することもあるのだろうし、明らかに常軌を逸した表現をしてる場合もあるのだが、大抵の場合、どうしてそういうふうに解釈するかなぁということが多い。一言確認すればすむのに、いきなり怒り出して「被害者」宣言をしてしまう。そしたら「加害者」(にされた方)は、自分が「無罪」であることを立証せざるをえなくなる。だいたい世間というものは、「被害者」にやさしい(それはそれで真っ当なことだ)ので、事実関係の確認以前に、「傷ついたって言ってるんだから、謝れ」みたいなことになる。もう、これはほとんど冤罪だ。身に覚えのないことでも一方的に「被害者」宣言されてしまえば、「加害者」にされてしまう。その場合、「加害者」が無罪であることを認めてくれる人も一定割合いるだろうが、「被害者」はまず納得しない。で、どちらか一方(だいたいは「加害者」にされた方)がそこから出て行く(だっていきなり加害者扱いされるんだから、気分悪いわなぁ)ことで事態が収拾される。

 実は、これはテロを生み出し、正当化する論理に構造的に似てる気がする。
 日本や合衆国を「日帝」「米帝」と呼ぶグループがある(サヨクな方々)。これまで「おいおい、帝国主義なんてもう終わってるだろう」と思ってたけど、要するに、これは上記の先に「私は傷ついた」と宣言したほうが勝ちという原則にしたがって、「自分たち(または自分たちが支援するグループ)は抑圧されている」と宣言し、その抑圧する主体を「帝国(主義)」と呼ぶことで相手を悪役におしこめているという論理構造をとってるんだなということがやっと理解できた。
 イスラム原理主義の中でテロを容認するグループの主張をそういう観点で眺めたら、どうも主観的には、自分たちは侵略に対抗する愛国的行動に出てるのだ、悪いのは侵略してくるほうじゃないかって言ってるように読めるのだ。「侵略」してる側に、侵略の意図や事実があるのかないのかの確認の前に「侵略されてる」と宣言してしまう。一般に「侵略」はよいことではないという認識がなされてるから、それへの抵抗は不当なことではなくなる。ここらあたりにテロを正当化する論理の根っこがあるように思う。きわめて単純化すれば

  1. 私はいじめられている(と宣言する。)
  2. イジメは悪い。
  3. だからいじめてるアイツは悪い。
  4. アイツをやっつけない限りいじめは続く
  5. だからやっつけなきゃいけない。

ということだ。この論理を成り立たせている基本は最初の認識。本当に「イジメ」てるんだったらそれは是正されるべきだし、そうでないなら認識を改めてもらう必要がある。「テロの根絶」って最後はそういうレベルの作業になるんじゃないかな。武器を持ってテロリストを殺すんじゃなくて。いくらテロリストを殺しても、テロリズムはなくなんないよ、きっと。


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Updated : 2001/10/01