Location : Home > Contemporary Files > 2001 Title : Terrorism |
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合衆国を襲った同時多発テロに対し、合衆国はビン・ラディン氏率いるアルクァイダ及び彼らを保護するタリバンに対し報復攻撃に出る模様である。ただし合衆国が一方的に彼らが犯人だと主張しているだけで、世界を納得させるだけの証拠をまだ提示していないが。
しかし、やはり聖戦と名づけようが報復と名づけようが、大量無差別殺人であることに変わりはない。それを命じる者もまぎれもなく殺人者だ。公正な裁きの場で裁かれるべきであり、そうでなければ、暴力と憎悪の連鎖がやむことはない。
仮にビン・ラディン氏率いるアルクァイダの犯行だとしても、今回の衝突が、巷で言われているように「文明の衝突」だとか、イスラム原理主義の「狂信」と超大国の「傲慢」との対立だという説明には、私はいまひとつしっくりきていない。大義というものは、人間がそのために行動するというよりは、もっと泥臭い感情を集団として正当化し、利用するときに用いる道具だからだ。
いろいろ考えてみて、今のところの暫定的な結論は、どちらも怯えていたから事態がここに至ってしまったのではないかということだ。
−−テロを起こした側は、合衆国的なものが自分たちの生活の中に侵入してことで、今まで自分たちが大切にしてきたもの、誇りにしてきたものが破壊されるという恐怖を感じ、抵抗したのではないか。そしてテロを受けた側はその抵抗の行為を攻撃と受けとめ、さらなる「攻撃」に対する危惧を持ち、それを叩こうとしている。−−
「異教徒を大量虐殺することが神の意志に沿うことだと確信するものは、もちろん己の観念のおぞましい性格や、その行為を犯罪的性格を自覚していない。
狂信者の倫理と寛容な人の倫理の間には、避けられない非対称が存在する。
つまり、後者は、自分を殺そうとする狂信者を理解するが、狂信者は自分が殺す前者を決して理解することはないだろう。」
(E.モラン 『E.モラン自伝』 叢書ウニベルシタス)
テロ行為そのものは非難されるべきで、その実行者・命令者・教唆者は裁かれるべきだ。けれども、それを軍事報復してしまったのではモランの言う「狂信者」に、自らの狂信性を認識させることはできず、かえって火に油を注ぐことになりかねない。
原理主義の根幹には、そうやって宗教原理を純粋化しておかないと自分たち以外の勢力に征服されてしまうという事態を勝手に想像して、それに怯えている姿がある。だから、自分たちの(勝手に想像した)「敵」のちょっとした振る舞いが全て、自分たちに対する攻撃に見えてしまう。テロ(=恐怖)にさらされているのは、実はテロリズムに毒されたテロリストの心なのかも知れない。
もちろん、抵抗手段としてのテロを正当化するつもりはない。
テロの原因が怯えにあるならば、武力によって取り除けないのだ。
火は火で消すことはできないのだから。
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Updated : 2001/09/24
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