Location : Home > Contemporary Files > 2001 Title : Parents who kill their own children |
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先週あたりから赤ちゃんがらみの事件が多いような気がする。
私は子どもを持った経験がない。まあ、そもそも結婚をしたことがないんだが、結婚しなくても子どもを持つことは可能なことなので、こういう書き方になる。だから、子どもを持つ親の気持ちというものは完全に理解することが出来ない。ただただ想像するだけだ。姉夫婦の子ども(早い話、私から見れば甥)のことをどう思うかというところから想像するしかない。
しかし、だ。それでも、自分の子どもを虐待するってのは輪をかけて理解できない。甥が2人いるうち、弟のほうが小さいときに病気でしばらく入院したために、兄のほうを二週間ほど預かったことがある。子育て(…と言っても預かったときは乳幼児ではないので、主に遊び相手をすることになるんだけれども。)というのが実に重労働だというのはよくわかった。本当に、自分の時間というものがなくなる。絶えず子どものことを考えて見ていないと、何をしでかすかわからない。はっきり言ってイライラもした。でも、その自分のイライラを甥にぶつけたりはしなかった。子どもを持ったことのない私でも、子どもとはそういう行動をするものだとわかっているからだ。本当に言い聞かせねばならないと思ったときにしか怒らなかった。
家庭的なものごとに対し斜に構えて、さほど価値を見出していない私ですら、上述したように、自分と血が繋がっている子どもに対して暴力を振るおうなどという感情は全くない。だから、なおさら、昨今の事件が理解できないのだ。自分の−特の母親にとっては自分のお腹を痛めた−子どもにどうしてそんなことができるのか。
わからないなりにいろいろ考えてみた。
核家族が増えて育児の知恵がうまく継承されてないとか、子どもの頃に自分が虐待を受けたらそれを自分の子どもに反映させてしまうとか、いろんな考えがあるんだろうけど、そういうことがあってもうまくいっている家族だっていっぱいいっぱいあるわけだし−ってそっちのほうが圧倒的に多いんだってば−。結局、そういう事件を起こしている夫婦にとっては、子どもが異物に見えているのではないのか?
誰かを疎ましく思うのは、突き詰めれば、一緒に時間を過ごしたくない、その人のために時間を使うことに対し「時間を奪われている」という感覚をもつことだ。その裏には「本当は自分の時間なのに」という思いがある。愛情がないのではない。おそらくなかったら最初から世話なんてしないで遺棄するだろう。
…異物が私(たち)だけの時間と空間を奪い去る−そういう感覚。しかも異物であるにも関わらず、文字通り自分(たち)の生み出したものであるという矛盾。自分(たち)に生存の全てを依存している異物。そういういらだちが暴力に向かわせるのではないか。。
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Updated : 2001/01/21
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