Location : Home > Contemporary Files > 2000 Title : Love won't save the Earth. |
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今日、ちょっとした買い物で近所のスーパーに行った。
昨日から某TV局では『愛は地球を救う』という24時間(実際にはもう少し長いようだが)番組をやっている。この番組では募金を行っているから、その窓口というか受けつけ口が私の近所の小さいスーパーにも設置してあったというわけだ。まあ、それ自体は決して悪いことではないのだけれども、なんとも言えない違和感を持った。
募金窓口になっている小さなコーナー(トレニア机1つ)に10数人の学生ボランティア(だと思う)が、あの黄色いおそろいのTシャツを着て「募金お願いします。」と声をそろえる。…その光景がどうもイヤだったのだと思う。
…これだけしか書かないと、いったい何を言っているのかわかってもらえないだろう。でも、ちょっと考えてみて欲しい。募金は何のために行うのか。何のために募金窓口にスタッフがいるのか。
募金の目的が、数多くの人から援助を必要とする人のためのお金を(できるだけ多く)集めることだとすれば、必要以上のスタッフが狭いスペースにたむろしているのは無駄だ。そのスーパーの許可を得た上で募金コーナーを分散させれば、より多くの人の目に触れるだろう。その手の工夫が見られない。本当にこの人たちは援助を必要とする人のために活動してるんだろうか、どいう疑念が走る。「自分はボランティアに参加している」という気分に酔いしれてるだけなのではないのか、という疑念だ。
もし、本当に救いたい相手がいるのなら、そして、それがお金でなんとかなる問題なのなら、私なら募金じゃなく、自分の労働で稼いだお金を投入しようとするだろう。ただしそれでもなお足りない場合には募金などの方策に出るかもしれない。でもその場合の切実さ・必死さというものは、年に1度黄色いTシャツを着ればすむようなものとは比較にはならないだろう。
敢えてここでイジワルな問題をだそう。
募金活動のスタッフが募金箱の後ろに座っているだけで集まるお金よりも、スタッフ全員がその時間だけバイトして稼いだお金をそのまま募金として拠出をしたほうが金額が上回る場合、スタッフはのんきに座っていていいのだろうか?
この問題を考えずにスタッフがのんきに座っていたのなら、「自分はボランティアに参加している」という気分に酔いしれてるだけだと断定してしまいたい。また、もし、「座っていてもよい。結果はともかく、募金活動をしたという過程が大事なのだ。」という回答がなされ、それが受容できるのは、余裕のある側の論理だ。たとえば8000万円分の資金が集まらないと手術を行えず、その結果、確実に死に至るような場合だと、「7000万円しか集まらなかったね。でもがんばったからよかったね。」では済ませられないはずだ。
募金により集まった金額の多寡が問題にされない場合、意味があるとすれば、その募金の目的が、「数多くの人からお金を(できるだけ多く)集めること」である場合だ。言わば、「布施」の原義に基づいた行動を(スタッフではなく)道行く人に起こさせることが目的とされる場合である。
毎年繰り広げられる「愛は地球を救う」騒動を見てると思うのだ。
その愛は誰に届いているのか?…と。
その愛は地球を事実として救った/救いうるものなのか?
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Updated : 2000/08/21
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