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Title : Probabilitized society
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Contemporary Files #20000117
確率化する社会
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 書店で久しぶりに『現代思想』(青土社)を手に取った。
 これまでも、気になるテーマの特集の時は買っていて、何冊か本棚にはあるのだが、なかなか全部読みきっていない。が、今回は割と丁寧に読んでいる。最新号(2000年1月号・Vol.28-1)のテーマは「確率化する社会」だ。

 確率論だの統計だのを1回でも学んだ人はわかると思うけど、やっぱり、第1段階としては、そういうのって「無知の表明」になってしまう。「原因はようわかりませんが、ひっくるめるとこういうこと言えるみたいです」的な数値をはじくだけ、ですもん。でも、そういう数字がないと社会が、もと露骨に言うと生産システムとしての社会が機能しなくなる。

 たとえば、社会人になると、生命保険に加入したりする。まあ、保険のおネェさんに押しきられるっていう面もなくわないけど、たいていの人が入ってると思う。ガン保険でも、自動車保険でも、なんでもいいんだけど、あれってよく考えたら(ん? よく考えなくても?)加入者の何%はそういう目に遭うことを前提にした仕組みなわけでしょ? で、そのパーセンテージがいくら以下だったらこれこれの掛け金でこれくらいの加入者があったらペイするよっていうのを考えるのが商品開発の腕の見せ所のはず、、、だが、そっちの話はおいとこう。
 繰り返そう。何人かに1人はそういう目に遭うことを前提にしてるシステム、なわけね。別にそのこと自体を非難しようってわけじゃない。だって、事実だもん。問題は、その「何人かに1人」に自分(の近親者)がなっちゃうこと、なんだ。

 人間は、たぶん、確率の誤差として扱われることに耐えられない。自分に起こったことは必然だと思いたい。でも、何%かの確率で私たちは交通事故で死んでいくし、意味もなく通り魔の犯行に巻き込まれる。その不幸の説明は、それこそ確率的にしかなされない。その時、その場所にいなければならなかったことが、そしてその犯人も、その時その場所にいなきゃいけなかったことが、必然だったら耐えられない。でも、その偶然のはずの、誤差のはずの対象に自分がなってしまうのは、やはり納得はできない。誰もがその「何人かに1人」に(確率的に)なりうるという「確率の暴力」の前には人間は逆説的に「平等」なんだ。

 ほ〜ら、そこのあなた。
 こんなこと書いてる僕はニヒリスティックな人間だと思ってるでしょ。
 ちょっと違うんだなぁ。
 大上段に構えた表現をすると、世の中のありようはそうだよねってことを一旦認めてるだけ。逆に、さっき書いた「確率の暴力」のことなんて、たいていの人は問わないことにしてるだけなんじゃないのかな。「人はいつか死ぬ」って言えばそうだと思っても、「自分はいつかは死ぬ」なんて考えて生きてないでしょ、ふつう。
 「確率の暴力」の結果として、自分の前に出てきてしまった現実をどう解釈してどう対処していくかって考えようと思ったらね、世の中、偶然で成り立ってないと困るのよ。だって必然だったら、それこそ、どうしようもないじゃない。必然なんだから。

 『現代思想』の対談(「確率・統計化した社会のゆくえ」)にもあるけど、確率的に起こりやすいことばかりが起こっていたら、生命の進化なんて起こらず「人間はアメーバでしょう」なんてことになる。ちょっとした確率的な誤差がうまくヒットしたとき、とんでもないことが起こる。変化を生みだす偶然(としか表現できない)ってものもある。人間社会での出来事なら、偶然から変化を生み出すことができる。

 「確率化する社会」では、その偶然をどう捉えるかで、無味乾燥な時代にも、豊穣な時代にもどちらにでも見ることが出来ると思うのであった。


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Updated : 2000/01/17